4.09.2026

レイモン・ルフェーブル — カレーが生んだオーケストラの巨匠:その生涯、音楽、そして世界への旅

著者:Claude AI、Học Trò(ホック・トロ)の指導と編集のもとに。


第一章:遠い従兄弟と七本のカセットテープ

1995年頃のこと、遠い従兄弟がいた——「遠い従兄弟」と呼ぶのは、正直なところ何親等かよく覚えていないからだが——その人が親切にも自分のCDから何本かカセットテープに録音してくれた。六、七本ほどで、すべてある名前の音楽だった。当時の私にはぼんやりとしか知られていなかった名前——レイモン・ルフェーブル。

家に持ち帰って聴いた。また聴いた。さらに聴き続けた。

あのカセットたちは、文字通り「すり切れる」まで聴いた——カセットテープというものは聴きすぎると音が歪み始め、ホラー映画の幽霊の声のように引き伸ばされてしまう——それでも聴き続けた。一本だけ今も忘れられないものがある。イントロがとても美しいある曲が、突然——ぷつん、と切れた。終わり。テープが切れたのか、録音スペースが足りなかったのか、とにかくその曲を最後まで聴けたことがない。本当に悔しかった。今でもその曲のタイトルが分からないままだ。

1996年、フランスを訪れる機会があった。もちろん、真っ先に思ったのはルフェーブルのCDを探して買うことだった。ところが驚くほど高かった——コンピレーション盤一枚で三十米ドル。当時の三十ドルはまだ決して小さな額ではなかったが、それでも九枚買ってしまった。帰宅して聴いて、ようやく高い理由がわかった。日本のビクターが、ルフェーブルの楽曲の権利を一括購入し、テーマ別コンピレーションに再録音し、高品質で印刷し、高値で販売していたのだ。気に入らなければそれまで——日本人は誰にも強要しない。しかし全曲聴きたければお金を払うしかなく、それは当然のことだと私は思った。

その九枚のディスク——レイモン・ルフェーブルの最高傑作約二百曲——こそが、後に彼が本当に何者かを理解するための土台となった。


そしてさらに何年も経って、通勤中の車の中でルフェーブルをかけるようになった。長距離通勤をする人なら誰でも知っているあの習慣——オーケストラ音楽を聴きながら運転する。穏やかで、歌詞を追う必要がなく、しかし眠くなるほど無味乾燥でもないものが必要だ。ルフェーブルはまさにぴったりだった。そして自然と、そんな通勤中に自分で歌詞を作って口ずさんでいることに気づいた——二言ほど、楽しみのために。"Un Jour l'Amour"を「愛はやってくる」に、"Let Me Try Again"(Laisse-Moi Le Temps)を「いつまでも君を愛す」に、"Da Troppo Tempo"はただ「思い出!」に変えてしまった——その曲の旋律には懐かしさと甘い切なさが漂っていて、一言で十分だと感じたからだ。

ルフェーブル、ポール・モーリア、フランク・プルセルの三人を指して「トリオ」とよく言う。ほぼ同世代のフランスの音楽の巨匠たち、同じイージーリスニングのスタイル、同じ時代の栄光、そしてフランス風オーケストラ音楽を愛する人々の記憶の中に共に刻み込まれた名前たちだ。ベトナム人——とくに1980年代から90年代の移民世代——はこの種のディスクをよく買っていた。上品で、聴きやすく、歌詞を理解する必要がない。かけるだけで部屋の雰囲気が変わる。

しかしその世代に三人のうち誰が最も有名かと問えば、大半はポール・モーリアと答えるだろう。彼には1968年にビルボードHot 100で一位を獲得した"Love is Blue"がある——ルフェーブルにもプルセルにも、アメリカ市場でこの記録はない。モーリアは露出も多く、広告も多く、記事にもなりやすかった。フランク・プルセルは非常に特徴的な弦の音を持っていた——高く舞い上がり、水が流れるように降りてくるあのバイオリンのスタイル——一度聴いたら誰でも分かる、混同のしようがない音だ。

そしてレイモン・ルフェーブルは?聴けばその素晴らしさは分かる。しかしその素晴らしさを言葉で説明するのが難しい。プルセルのような明確な「シグネチャー」はない。モーリアのような商業的な大ヒットもない。ルフェーブルは多く聴き込んで初めて染み込んでくる人であり、なぜ日本人——そう、日本人が——二十年に満たない期間に十回以上も招いたほど彼を熱烈に愛したかが、ようやく理解できる存在だ。

レイモン・ルフェーブルの物語は、グループの中で最も有名な人物の物語ではない。最も興味深い人物——最も豊かな人生を送り、最も多くの分野に足跡を残し、知れば知るほど知りたいことが増える人物——の物語だ。


カレー:海辺の町からの出発

レイモン・ルイ・オーギュスト・ルフェーブル(Raymond Louis Auguste Lefebvre)——これが彼の本名で、後に「b」が省かれアクセントが加えられて「Lefèvre」となった——は1929年11月20日、フランス北部の都市カレーに生まれた。

カレーはパリではない。それが彼を理解する上でまず重要なことだ。カレーはドーバー海峡に面した港湾都市で、イギリスの海岸まで約三十キロしか離れていない——晴れた日には対岸が肉眼で見えるほどの距離だ。カレーの人々は子供の頃から汽笛の音と潮の香りの中で育つ。ここは行き交う人の街であり、船の航路の街であり、フランスとイギリスの文化が出会う街だ。

彼の家は裕福ではなかった。母はカレーで小さな食料雑貨店を営んでいた。父は戦時中、手押し車で食料を集めて回っていた——1995年のインタビューで彼は平静な声でこのことを語り、嘆きはしなかった。しかし家族は音楽を愛していた。父はクラリネット、ピアノ、チェロの三つを弾いた——プロとしてではなく、しかしレイモンがまだ幼い頃から家の中に音楽的な空気を作り出すには十分だった。

レイモンがわずか六歳のとき、父が発見したのは、この子が絶対音感を持っているということだった。父は壁に向かって立たせてからピアノの鍵盤を叩き、レイモンは見ずとも全ての音を言い当てた。その能力——学んで得たものではなく、生まれつき耳に備わっていたもの——こそが、後のすべての土台となった。

レイモンは子供の頃からピアノとフルートを学び、驚くほどの速さで上達した。たった一ヶ月のうちに——同じ月にブルヴェ(基礎中等学校修了試験)に不合格となったにもかかわらず——地元でピアノと長笛それぞれの一等賞を獲得し、さらに音楽理論で金メダルも受賞した。一ヶ月に三つの賞、同じ月にブルヴェを落ちて!この話を彼は笑いながら語った。まるで自分がどの職業に就くべきかを明確に示しているかのように。

1946年、彼は決意した。カレーではもはや学び続けることができない。何者かになるためにはパリへ行かなければならない。

まだ十六歳だった。


その光景をよく思い浮かべる——1946年、一人でパリへ向かう十六歳の少年。第二次世界大戦が終わってまだ一年も経っていない。パリは四年間のドイツ占領を経てようやく回復しつつあったが、まだ多くの傷が癒えていなかった。そんな時代に、カレーから来た少年が電車を降り、背中にリュックを背負って音楽学校への道を探した。

カレーでのフルートの師は——どうやらあまり信じていなかったらしく——両親にこう言ったという。「心配しなくても落ちますから、せめて音楽院の入試というものがどんなものか分かればいいでしょう。」それでも父は密かに息子の合格を願っていた。そしてレイモンは初めての挑戦で見事合格し、パリ国立高等音楽院(Conservatoire National Supérieur de Musique de Paris)に入学した。

彼は二十世紀フランス最高のフルート教師の一人、マルセル・モワーズのクラスに入り、同時に和声の授業も受けた。住まいは十五区のデスノエット通りの小さな部屋、電気も水道もガスもなかった。床に置いた箱がテーブルや椅子の代わりで、友人から借りたマットレスがあった。それが未来の音楽の巨匠の家だった。

毎日八時間のフルートの練習。モワーズが定めた基準であり、レイモンはそれに従った。


しかし名門校に通っても授業料は払えない。入学から二ヶ月目には早くも、パリのダンス楽団やヴァラエティ楽団でピアノを弾く仕事を求め始め、生活費を稼いだ。彼はミュゼット風の大衆的な楽団で弾いた——コルセール通りのダンスホール「ル・ミルリトン」のトニー・ミュレナ楽団など——そして次第により名声のある楽団へと登っていった。誰もができることではない——昼は最高の音楽学校で学び、夜はお金のために演奏する。忍耐力が必要で、本当に好きでなければならない。ルフェーブルは本当に好きだった。

名前について一言:1952年2月のジャズ・ホット誌第63号では、生まれ持った名前「Lefebvre」で記されていた。その後1956年頃、バークレーレコードと契約した際に「Lefèvre」へと変更した——真ん中の「b」を省き、真ん中の「e」にアクセントを加えて——ポスターやアルバムジャケットでより見栄えがよく、発音も明確で、覚えやすい名前を作るためだ。この小さなエピソードがこの人物の性格を物語っている。彼は実際的だった。音楽は芸術であると同時に職業でもあることを理解していた。


第二章:ジャズ、ダンスホール、そしてユベール・ロスタンという男

ジャズはルフェーブルが求めて来たものではない。お金が必要だったから来たのだ。

しかし、お金が必要でありながら好きな仕事をしている場合、その最初の「お金の必要性」は気づかないうちに情熱へと変わっていく。ルフェーブルは1946年から47年頃にパリのダンス楽団やヴァラエティ楽団でピアノを弾き始め、わずか数年のうちに、パリのジャズ・ダンスミュージックシーンで最も求められるピアニストの一人となった。

1949年、彼はユベール・ロスタンの楽団に加わった——当時のパリのジャズ界で知られたフランスのクラリネット・サックス奏者だ。ロスタンはアメリカのビバップをいち早く取り入れ、そのスタイルをパリに持ち込んだ。彼の楽団はサンジェルマン・デ・プレのジャズクラブで演奏し、リビエラに遠征もする、非常にダイナミックな楽団だった。その楽団に加わったことで、ルフェーブルは単なるピアニストではなくなり、編曲の技術——他の楽器の伴奏パートや支持パートを書くこと——を学び始めた。

それが転換点だった。優れたピアニストは多い。編曲ができる人——どの楽器がどの音を、どこで、いつ演奏するかを決める人——はずっと少ない。ルフェーブルはその希少なグループに属していた。

1950年代初め、彼はベルギー人のサックス奏者兼フルート奏者ボビー・ジャスパーとも共に仕事をした——当時のパリ音楽界で一定の地位を持つジャズミュージシャンだ。そうした多くの国際的ジャズミュージシャンとの早い段階での交流が、教室の中だけで学んだ人よりもはるかに広い和声の基盤をルフェーブルに構築させた。


ロスタンの後、彼はベルナール・イルダの楽団へと移った——一段上のレベルへの昇格だ。ベルナール・イルダは当時パリで最も有名なキャバレー楽団「ラ・ヴィラ・デステ」の指揮者だった。彼はそこでピアノを弾き、歌手ジャクリーヌ・フランソワのアメリカ公演のために去っていたレイモン・ベルナールの代わりを務めた。彼はこう回想している。「私は結婚したばかりで、自分がパリで最も高給取りのピアニストだと思っていた。」

イルダはパリにとどまらなかった。楽団を率いてヨーロッパ中——イタリア、スペイン、モナコ——を回り、さらにはアメリカへも渡り、ロサンゼルスのヒルトンホテルで三ヶ月を過ごした。ルフェーブルはそれらの旅にイルダについて行き、様々な音楽に触れた。キューバのチャチャチャ、メキシコのボレロ、イタリアの室内楽、ニューヨークのジャズ。ロサンゼルスでは多くのアメリカのジャズミュージシャンとも出会い——それはいかなる教室でも得られない経験の基盤となった。


しかしこの時期の最も重要な出会いは、フランク・プルセルとの出会いだった。

プルセルはすでに名のある人物だった。自分の大管弦楽団を持ち、パテ・マルコーニと録音契約を結んでいた。マルセイユ出身のバイオリン奏者として、プルセルは他に類のないサウンドを作り上げていた——高く舞い上がる、明るく澄んだバイオリンのライン。1950年代半ばのある日、仕事に追われていたルフェーブルのヴォジラール通りのアパートを訪ね、歌手アンドレ・クラヴォーのための編曲を依頼し、その後グロリア・ラッソーのためにも頼んだ。二人はうまく協力し、親しい友人となった。

プルセルを介してルフェーブルはポール・モーリアとも出会った——当時まだキャリアの初期段階で、彼もまた自分の楽団を作りつつあった。三人はともに友人になるだけの共通点を持っていた。クラシックの訓練を受けながらも大衆音楽に惹かれ、コンサートホールの格式と踊りの音楽の喜びの交差点で働いていた点だ。

しかし三人は重要な点で互いに異なっていた。モーリアは三人の中で最も実験的だった。プルセルはサウンドの点でかなり保守的だった。そしてルフェーブルはその中間のどこかに位置していた——しかしそれは平凡な中間ではない。彼はプルセルがほとんどしないような形でリズムセクションとブラスを強調した。ルフェーブルの音楽には一種の「はずみ」があり、前へ押し出すリズムがあった——それは彼がダンス音楽とジャズを演奏した年月から来ていると私は思っている。


1956年、彼の人生の方向性を完全に変える三つのことが同時に起きた。第一に、バークレーレコードと契約。第二に、自分の名を冠した大管弦楽団を結成。そして第三に、エジプト系イタリア人の歌手ダリダとの協力が始まった。


第三章:バークレーレコード、ダリダ、そして1956年九月

1956年九月は、すべてが一度に起きた月だった。

ルフェーブルには二つのレーベルの選択肢があった。ポリドール(当時ポール・デュランが芸術面を統括していた)とバークレーだ。エディ・バークレーは——穏やかな声で、音楽の耳が鋭く、才能を見つけ出すことに極めて長けた人物で——自らルフェーブルの自宅を訪ねて説得した。ルフェーブルがプルセルに意見を求めると、プルセルは率直に言った。「バークレーの方がポリドールより現代的だ。」こうしてルフェーブルはバークレーと契約した。エディ・バークレーは彼らしい穏やかな声で言った。「Eh bien, tu le feras chez moi!」(よし、ならウチでやろう!)

ダリダとともに、ルフェーブルははじめて公式に「レイモン・ルフェーブルとその大管弦楽団」を結成し——同時に、新設された民間ラジオ局ヨーロッパN°1の音楽責任者にも任命された。


ダリダはフランス人ではなかった。1933年にエジプトのカイロで、イタリア系の家庭に生まれた——父はカラブリア出身のバイオリニスト。エジプトで育ち、幼い頃からイタリア語とアラビア語を習得し、その後フランス語、ギリシャ語、後にはスペイン語も学んだ。複数の言語で歌える能力は非常に稀なもので、彼女のキャリアがこれほど多くの異なる市場に広がった主な理由だった。

1956年、彼女はレーヌ・デュ・バル(舞踏会の女王)コンテストで優勝し、エディ・バークレーの目に留まった。バークレーは彼女と契約し、すぐにデビュー録音の編曲をルフェーブルに任せた。その曲が「バンビーノ」だった。


「バンビーノ」のレコーディングセッションは1956年九月、パリのマジュラン通りのスタジオで行われた。ルフェーブルが楽団を指揮し、ダリダは楽団と共にライブで歌った——今日のように後から声を別録りする方法ではなく。当時のルールは三時間で四曲を録音するというもので、ミスの余地は少なかった。

そしてダリダはミスをした。

二番のコーラスで、彼女は「ce n'est pas ça qui dans son cœur te vieillira」ではなく「ce n'est pas ça que dans son cœur te vieillira」と歌ってしまった——小さいが明確な文法ミスだ。セッションの持ち時間はすでに超過しており、録り直しの資金もなかった。こうしてそのミスは録音に残った。「バンビーノ」はその文法ミスを含んだまま何百万枚も売れた——誰も文句を言わず、もし言ったとしても誰も耳を貸さなかった。

ルフェーブルはこの話を微笑みながら語った。彼はダリダが好きで、二人の関係は録音スタジオを超えたものだった。ダリダはよくルフェーブルの自宅を訪れ、彼の二人の息子たちへのプレゼントを持ってきた。長男のベルナールには冗談でこう言った。「あなたは私の小さなフィアンセよ。」ダリダが1961年に結婚した際、まだ幼かったベルナールはしょんぼりして抗議した。「だめ、だめ、僕が彼女のフィアンセだもの!」



「バンビーノ」は即座に成功した。その後、ルフェーブルが六年にわたってダリダのために手がけた一連の編曲が続く——「ゴンドリエ」、「チャオ・チャオ・バンビーナ」、「ラブ・イン・ポルトフィーノ」、「オー・ソレ・ミオ」、「ラ・シャンソン・ドルフェ」——それらの楽曲を通じてイタリア音楽への深い理解を積み重ね、それが後に彼自身の財産となった。

ダリダと並んで、この時期ルフェーブルはバークレーの多くの他のアーティストのための編曲も担当した。フリーダ・ボッカラ、エディ・コンスタンティン、ミレイユ・マチュー、リカ・ザライ、その他多数。この時代に彼は、声を聴いてどんな伴奏が合うかを判断する技術を学んだ——歌手を圧倒するほど強くなく、インパクトを失うほど弱くない、絶妙な伴奏を。


1960年代初頭のユーロビジョン・ソング・コンテストでルフェーブルがモナコ代表を務めたことも見逃せない——1963年にはフランソワーズ・アルディの「ラムール・サン・ヴァ」でも代表を担当した。一つの楽しいエピソード:ルフェーブルがモナコから受け取ったギャラをプルセルに伝えると、プルセルは驚き、すぐにその情報を利用してフランス側から同等の報酬を要求した。そして得た。その後プルセルはルフェーブルに温かく礼を言った。


第四章:大管弦楽団、フランスのテレビ、そしてギイ・リュックスとの十五年

1956年末早くも、録音のキャリアの開始と並行して、ヨーロッパN°1のルイ・メルランとリュシアン・モリスがルフェーブルに音楽番組「ミュジコラマ」の音楽責任者を任せた——毎週火曜の夜、パリのオランピアの舞台から生中継され、同日午後のリハーサルの後に放送された。当時テレビを持つ家庭は少なく、このラジオ番組は非常に多くの聴衆を集めた。

そして彼は多くの人が知らないことをした——ヨーロッパN°1のジングルを作曲したのだ。フランスの人々が毎日ラジオをつけるたびに耳にしていたあの特徴的なカリヨンの音——あの有名な六つの音符——はレイモン・ルフェーブルが作ったものだ。

六つの音符。何百万回も聞かれた。誰も書いた人を知らない。


しかしルフェーブルのテレビキャリアで最も重要な時期は「ミュジコラマ」ではなかった。それは「パルマレ・デ・シャンソン」——ギイ・リュックス司会の音楽テレビ番組で、1965年九月にORTFの第一チャンネルで始まった——だった。

ルフェーブルとギイ・リュックスはそれ以前から知り合いだった——ルフェーブルがポール・モーリアと作家ジャン・ブルッソールとともに、1962年に始まったギイ・リュックスのゲーム番組「アンテルヴィル」のテーマ曲を作曲した際のことだ。そのテーマ曲の名は「ドゥ・ヴィル・アン・ヴィル」——レイモン・マルシラックの「テレ・ディマンシュ」のために書かれた「ボワドゥローズ・マーチ」も同様で、マルセル・アッゾーラ、ジルベール・ルッセル、ジョス・バゼリらの著名なアコーディオン奏者四人が演奏した。これらのテーマ曲は1960年代のフランスのテレビ視聴者の心に深く刻まれ、作曲者を知らない人でも今なお旋律を覚えている人が多い。

1965年九月に「パルマレ・デ・シャンソン」が始まった際、ギイ・リュックスはルフェーブルに音楽監督を依頼した。そしてルフェーブルは十五年以上この番組に携わり続けた。


「パルマレ・デ・シャンソン」はパリのプレジダン・ケネディ大通りのラジオフランス本部スタジオ102から生放送された。プレッシャーは相当なものだった——放送前に十五から十六曲をリハーサルしなければならず、放送は20時30分なのに彼は13時30分に到着していた。放送が終わると翌日にはもう翌週の出演者たちが家に来て、音域と歌う曲の情報を伝えていく。彼の居間は、彼の言葉を借りれば「医者の待合室のようだった」。それが週ごとに、十五年以上続いた。

ジャン=ルー・ラフォンは1976年のフランス・スワール紙でこう書いた。「彼はギイ・リュックスのカラヤンだ。」——賛辞であると同時に、当時のフランスのテレビ生態系におけるルフェーブルの役割を正確に描写した言葉だった。

「パルマレ・デ・シャンソン」の後、彼は1971年に始まったギイ・リュックスの「カデ・ルッセル」の音楽監督も務め、同名の民謡のメロディからこの番組のテーマ曲を作った。後にそのテーマは彼の日本公演の開幕音楽となった。


「パルマレ・デ・シャンソン」を通じて、ルフェーブルはその時代のフランス音楽界のほぼすべての大物と共演した。ダリダ——もちろん。クロード・フランソワ。リシャール・アンソニー。そしてジャック・ブレル——ルフェーブルが共演したすべての人の中で最も尊敬するアーティストだと言った人物だ。「ブレルはこの業界で出会った最高の人間だった。才能も人格も兼ね備えていた。」二十年以上にわたってフランスの数十の大スターと共に働いてきたルフェーブルのような人物が語るとき、その言葉には重みがある。


しかし、ルフェーブルが世界で最も有名なフランス語の曲の一つを共作したことを知る人は少ないかもしれない——偽名のもとで。

1961年、三人の友人——フランク・プルセル、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル——はしばしばパリのプルセルの家に集まって仕事をしていた。そして1961年のある午後、三人は共に「シャリオ」のメロディを作り上げた。

プルセルはこの曲がヒットすると確信していた。チャンスを最大化するために、三人は偽名を使うことにした——フランス人の名前ではアメリカ風やイタリア風の名前に比べて田舎っぽく見られると考えたからだ。プルセルはJ.W.ストールに、モーリアはデル・ローマに、そしてルフェーブルはF.バートを選んだ——「短い言葉で、外国のラジオ局でも発音しやすい。」詩人ジャック・プランテが歌詞を書き、彼もまた秘密にするよう言われた。アメリカの曲をフランス語に翻訳したものだという噂まで流した。

ペトゥラ・クラークが最初に「シャリオ」を歌った。曲は大成功した。数か月後、真実が明るみに出た——この曲はマルセイユの二人、プルセルとモーリア、そして北の一人、ルフェーブルによって書かれたものだった。アメリカでは"I Will Follow Him"と改題され——1963年にリトル・ペギー・マーチが歌い、ビルボードで一位を獲得した。数十年後、この曲は映画「天使にラブソングを」でウーピー・ゴールドバーグとともに再び世界へ広まった。

マルセイユの二人とカレーの一人が、イタリア系アメリカ人らしき名前のもとで世界的ヒット曲を書き上げた。


第五章:ルイ・ド・フュネス、憲兵たち、そして笑いの音楽

1963年、ポール・モーリアは出版社ロベール・サルヴェからルイ・ド・フュネス主演のジャン・ジロー監督映画「マネーを飛ばせ」の音楽制作の依頼を受けた。二人がちょうど共同作業をしていた時期だったためルフェーブルも加わり、結果は良好で、ジャン・ジローはルフェーブルの名を覚えた。

1964年、ジローは二人を次の映画「憲兵はサン・トロペへ」の音楽担当として招いた——後にフランスのコメディ映画界の現象となる作品だ。ジュヌヴィエーヴ・グラッド(ド・フュネスの娘を演じた)が歌った「ドゥリウ・ドゥリウ・サン・トロペ」は撮影前に録音された。撮影現場で再生する必要があったからだ。

しかし実際の映画音楽——各シーンに合わせて書かなければならない音楽——はとても特殊な形で生まれた。


1964年七月末から八月初め。すでに疲れていたポール・モーリアはルフェーブルに言った。「俺は休暇に行く!」そして姿を消した。ジャン・ジローはパニックになってルフェーブルに電話した。「君に見捨てられたら困る——今のパリには誰も残っていない。」

ルフェーブルは買ったばかりのオワーズ地方の田舎の小屋にいた。彼はジローに言った。「分かった、アシスタントが台本と音楽が必要なシーンのリストをオワーズまで届けてくれるなら、私が書く。」

そして彼は庭に座った——ピアノもなく、手に楽器は何もなく、台本と八月の静かな庭だけがある——そしてすべての映画音楽を書き上げた。「憲兵の行進曲」——ジャン・ジローが映画「戦場にかける橋」の「クワイ河マーチ」のようなマーチを望んでいた曲——はこのようにして生まれた。楽器なし、ピアノなし。ただ彼の頭と、六歳のときに父が壁に向かって立たせながらピアノの音を試したあの頃から鍛えられた耳だけで。

結果:フランス映画史上最もよく知られる映画音楽の一つが誕生した。


ルイ・ド・フュネスはフランスのコメディ映画界の現象だった。小柄で素早く、表情豊かすぎる顔——彼の顔こそが彼の「楽器」だとよく言われた。撮影現場では、ルフェーブルとド・フュネスはよく座って長話をした——二人とも若い頃にパリのキャバレーやサロンで音楽を演奏して生計を立てた時期があった。ド・フュネスはピガールでのピアニスト時代の話を語り、ルフェーブルはコンセルヴァトワールの学費を払うためにピアノを弾いた年月を振り返った。二人が話し込むあまり、ジャン・ジロー監督が何もできずに立ったまま待ち続けることもあった。ド・フュネスは「グラン・ヴァカンス」(1967年)の後、映画音楽を褒める手紙をルフェーブルに送った——ルフェーブルはその手紙をとても大切にしていたと語った。

ルフェーブルは憲兵シリーズ全六作の音楽を担当した——1964年から1982年までの約二十年にわたる旅で、ツイスト(第一作)からシンセサイザー(最終作)まであらゆる音楽スタイルを網羅した。第三作からは、モーリアなしで一人で書いた。


ルフェーブルの映画音楽を語る上で「ジョー」(1971年)は外せない——ジロー監督とド・フュネスによるMGMフランスが共同制作したミステリーコメディだ。ルフェーブルはジローを説得し、音楽をコメディよりもスリラー寄りにさせた。それは映画音楽を深く理解している人間の発想だった。


そして彼の映画音楽にまつわるエピソードで、私が可笑しくも感動的だと思うものがある。1981年の映画「シューに魂を(La Soupe aux Choux)」のことだ。映画の予告編用テーマを書くよう求められたとき、ルフェーブルは短い曲一つのために三十人のミュージシャンを雇いたくなかった。ブローニュ=ビヤンクールのギー・ボワイエのスタジオへ行き、一人でシンセサイザーの前に座った——しかし使い方を知らなかった。手当たり次第にボタンを押し、気に入った音は残し、気に入らない音は捨てた。十六トラック、完全に試行錯誤で。

プロデューサーのクリスチャン・フェシュネルが聴きに来て、叫んだ。「素晴らしい——何も変えないで!」そのラフデモがそのまま映画全体に使われた。

2006年頃——約二十五年後——四十万人以上の日本人がその曲を着信音としてダウンロードした。ブローニュ=ビヤンクールのスタジオで手当たり次第にシンセサイザーのボタンを押していたあの午後、ルフェーブルにそんなことが予測できるはずもなかった。


第六章:「アーム・カリーヌ」、「シバの女王」、そして世界を旅した音楽

1968年はルフェーブルの国際キャリアにとって特別な年だった。ヨーロッパ中が学生運動に揺れ——パリの五月革命、アメリカの反戦デモ、ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンとともにロックが最盛期を迎えていた。そんな状況の中で、フランス風のオーケストラアレンジがアメリカのイージーリスニングチャートで四位に上った。

その曲が「ソウル・コーキシング」——フランス語では「アーム・カリーヌ(Âme Câline)」だ。


「アーム・カリーヌ」はもともとミシェル・ポルナレフのもの——風変わりで非常に才能あるフランスのミュージシャンだ。ルフェーブルはそれを聴いて、メロディの中に自分のオーケストラスタイルに合う何かを見出した。メロディを取り、歌詞を取り除き、オーケストレーションをゼロから書き直した。彼のバージョン——1968年初頭にアメリカで「ソウル・コーキシング」としてリリース——はバイオリンとトランペットが先導し、退屈にならない程度に十分力強く、しかしメロディを圧倒しない程度に軽いリズムセクションを持つオーケストレーションだ。

結果:「ソウル・コーキシング」はビルボードHot 100で37位、イージーリスニングチャートで4位まで上昇した。英国では46位に達した。しかしチャート以上に重要なのは、この曲が長年にわたって少なくとも三つの主要なヨーロッパのラジオ局——ラジオ・キャロライン、ラジオ・ルクセンブルク、英国のチルターン・ラジオ・スーパーゴールド——のテーマ曲となったことだ。BBCワールドサービスも1980年代にドキュメンタリーシリーズ「ネットワークUK」のテーマとして使用した。


しかし彼の人生を本当に変えた曲——フランスでもアメリカでもなく、日本で——は「シバの女王(La Reine de Saba)」だった。

「シバの女王」は1969年にルフェーブルが録音した曲——豊かな弦、クライマックスで際立つブラスセクション、そして神秘的な東洋を想起させる何かを持つ壮大なオーケストレーションだ。ヨーロッパでリリースされたが、そこでは特に注目されなかった。しかし日本では現象となり——オリコンチャートで26位まで上昇し、110週連続でそこに留まった。ほぼ二年間。総販売枚数:三十二万二千六百枚。

その数字がその後のすべてをもたらした。


1958年から、彼の楽団は自前のディスクを録音し販売し始めていた。国際的に本当にインパクトを与えた最初のアレンジは「ザ・デイ・ザ・レインズ・ケイム(The Day the Rains Came)」——ジルベール・ベコーの「雨の来る日(Le Jour où la pluie viendra)」の歌詞なし版だった。アメリカではビルボードHot 100で30位、1958年のオナー・ロール・オブ・ヒッツで14位に達した——レイモン・ルフェーブルの名が初めて英語圏のチャートに登場した瞬間だ。

楽団の規模について:オーケストラアルバムでは、ルフェーブルは最大四十五人のミュージシャンを使った。弦楽器:十八本のバイオリン(主にパリ・オペラ座とフランス衛兵隊から)、六本のビオラ、四本のチェロ、コントラバス一本、そして通常はリリー・ラスキンが弾くハープ一台——プルセルのためにピアノを弾いていた頃の知人で、レコーディングスタジオではハープとピアノが近くに座ることが多いので、二人はよく話をしていた。ブラスが必要な場合:三本のトランペット、三本のトロンボーン、ホルン一から三本。そしてもちろん:ピアノ、ベース、ドラム、ギター。

その楽団——四十五人——こそがレイモン・ルフェーブルの真の楽器だった。彼は観客の前でギターやピアノを弾かなかった。指揮棒を持って、あの楽団を演奏した。


第七章:サンレモ、イタリア音楽、そしてイタリア音楽への扉

レイモン・ルフェーブルはイタリア音楽と特別な関係を持っていた——遠くから憧れるようなものではなく、若い頃からベルナール・イルダとともに地中海を巡るツアーをした年月を通じて、実際にイタリア音楽を聴き演奏してきた人のものだ。

イタリア音楽には、フランス音楽が——どれほどフランス音楽を愛していても——時に持ちえないものがある。豊かな旋律、ためらいのない情熱、単純なメロディが空と海をすべて抱えてくるあの感覚。「オー・ソレ・ミオ」や「ヴォラーレ」や「ノン・ホ・レター」を思い浮かべれば、すぐにそれが分かる。ルフェーブルは早くからそれを理解していた。そして自分の楽団を作り始めたとき、イタリア音楽は常に彼のカバーやアレンジのリストに入っていた。


サンレモ音楽祭——イタリアのリグリア海沿岸の小さな都市で毎年開催される音楽祭——は、ヨーロッパの最高の曲たちが集まる場所だ。1951年の始まり以来、サンレモはクラシックとなった曲を数多く生み出した。「ヴォラーレ」(1958年)、「アズッーロ」(1968年——アドリアーノ・チェレンターノ)、「ケ・サラ」(1971年)。ルフェーブルは早くからサンレモと関わっていた——ダリダを通じて。ダリダは1958年のサンレモに「ゴンドリエ」で参加し、その編曲をルフェーブルが担当した。しかし最も特別な関わりは「フェスティバル・デ・サン・レモ73」(1973年、リビエラGP-317)というアルバムを通じて——1973年のサンレモの十曲すべてを歌詞なしのオーケストラ形式で録音したアルバムだ。

その十曲の中には、後に日本のビクターが別のCDにまとめたタイトルが含まれていた。「ダ・トロッポ・テンポ」、「ウン・グランデ・アモーレ・エ・ニエンテ・ピウ」、「イオ・ケ・ノン・ヴィーヴォ」、「パロール・パロール」、「ストーリエ・ディ・トゥッティ・イ・ジョルニ」、「ドンナ・コン・テ」、「レ・コッリーネ・ソノ・イン・フィオーレ」、「キ・サウラ」。同じコンピレーションセットの中には、「ヒム・ア・ラムール(Hymne à L'Amour)」というタイトルのフランスのシャンソンディスクと、「レイモン・ルフェーブル・ポップ・クラシカル」というポップ化されたクラシックのディスクも含まれていた。その三枚のディスクこそ、1990年代の日本の聴衆がルフェーブルを知るきっかけとなったものだ。


そしてそれが私が彼を知ったきっかけでもある。

なぜこう言うかというと、私の音楽遍歴に少ない人が気づく部分があるからだ——私はイタリア音楽に直接たどり着いたわけではない。ルフェーブルの扉を通って着いたのだ。

ビクター・ジャパンのCD「ダ・トロッポ・テンポ」——1996年にパリで法外な三十ドルで買ったもの——を初めて聴いたとき、美しいイタリア音楽だということしか分からなかった。「ダ・トロッポ・テンポ」のメロディには懐かしさと甘い切なさが漂い、何への郷愁か分からないような類の思慕がある——「彼はまだあなたのことを想っている、寒い季節が来るたびに」と自分なりに訳した。「ウン・グランデ・アモーレ・エ・ニエンテ・ピウ」は「一つの大きな愛とそれ以外は何もない」と訳せる——悲しくて美しい、イタリア風の美しさだ。「イオ・ケ・ノン・ヴィーヴォ」——「生きることのできない私」——タイトル自体がすでに詩の一行だ。そして「パロール・パロール」——ダリダとアラン・ドロンが一緒に歌った、空虚な約束だらけのあの曲——ルフェーブルの歌詞なしのオーケストラバージョンで聴くと、メロディは言葉よりもずっと悲しいことに気づく。

それらの歌詞なしのオーケストラ曲から、オリジナル版を探し始めた。そしてオリジナルから、知らなかったイタリアの現代音楽の広い世界を発見した。ルフェーブルがその扉だった。あれらのオーケストレーションがなければ、「ダ・トロッポ・テンポ」がイタリアの古典曲であることを知ることはなかったかもしれない。彼は誰のために開けているか知らずに扉を開けた。


サンレモの他にも、ルフェーブルはイタリア音楽を様々な角度から追いかけカバーし続けた。アルバム「カンツォーネ(Canzone)」(1991年、ビクターVICP-166)は彼の最も純粋なイタリアのアルバムの一つ——日本でリリースされた。日本人はイタリア人と同じくらいイタリア音楽を愛しているからだ。57分のこのアルバムはロマンティックなイタリアの曲のオーケストレーションで満たされている——ナポリのシャンソンから現代のイタリアンポップまで。

ラテン音楽。これはルフェーブルのキャリアの中で普通の聴衆があまり知らないもう一つの側面だ。アルバム「スイート・ラティーヌ(Suite Latine)」(1981年)——完全にラテンとスペインの十曲——は彼がフランスの音楽的なショービニズムを持っていなかったことの証明だ。彼の世代の多くのフランスの音楽の巨匠は外国の音楽に対してやや閉じた目を持っていた。フランスが中心で、他の国は周辺だという見方だ。ルフェーブルはそうではなかった。どこからでも音楽を聴き、区別しなかった。その姿勢こそが彼の音楽が広まった理由の一つだ。


第八章:「ソウル・シンフォニーズ」——クラシック音楽が新しい服を着るとき

1971年、ルフェーブルは矛盾しているように聞こえるタイトルのアルバムをリリースした。「ソウル・シンフォニーズ」。

「ソウル」——英語の言葉で、アレサ・フランクリンやマービン・ゲイのソウルミュージックを想起させる。「シンフォニーズ」——ヨーロッパのクラシック音楽、十八から十九世紀のウィーンのかつら姿の作曲家たちの言葉。二つは同じ文に属するとは思えない。

しかしルフェーブルがそのタイトルで言いたかったのは、ソウルとシンフォニーを文字通り混ぜているということではない。これらのクラシック曲には「魂」がある、そしてその魂はスーツとネクタイでコンサートホールへ行く人々だけでなく、もっと多くの人に聴かれる必要がある——そう言いたかったのだ。

「ソウル・シンフォニーズ No.1」(1971年)はベートーヴェンの「悲愴ソナタのアダージョ」で幕を開けた。「バック・トゥ・バッハ(Back to Bach)」(1975年)はJ.S.バッハに完全に捧げたアルバム——生涯を通じてルフェーブルが敬愛した作曲家だ。このアルバムの収益がバッハの生涯の収入を超えるかもしれないと問われると、彼は笑ってこう言った。「それは不公平だ!バッハはもっとたくさんの報酬を受け取るべきだった。」

ルフェーブルはこれらのアルバムを通じて初めてクラシック音楽を好きになったという聴衆からの多くの手紙を受け取った——「あなたのおかげで、クラシック音楽を発見し、大切にするようになりました。」ルフェーブルはそこへの扉だった。私にも同じことが言える——ルフェーブルは私にとってイタリア音楽への扉でもあったからだ。


この時期の興味深い細部が一つある。1970年、ルフェーブルはヴァンゲリスの作品をアレンジした——当時はまだアフロディーテズ・チャイルドのメンバーで、後に世界的に有名になる前のことだ——モントルー・ゴールデンローズ・フェスティバルのテーマとして。1970年という時点で、ルフェーブルはすでに無名のギリシャの若手ミュージシャンの才能を見抜く感受性を持っていた。

そして1987年、著名なフランスのミュージシャン、ウィリアム・シェレルが、アルバム「ユニヴェール(Univers)」の中のオペラ・カンタータ「レンピール・ド・トホル(L'Empire de Toholl)」でルフェーブルに楽団指揮を依頼した。これはテレビから退いた後も、ルフェーブルが一流ミュージシャンが共に仕事をしたい相手であり続けたことを示している。


第九章:日本——説明のつかない愛

1972年、レイモン・ルフェーブルは初めて日本の地を踏んだ——十八都市を回るツアーのために。彼は「シバの女王」のおかげで1969年からすでに日本で有名だったが、日本の舞台に実際に立って初めて、その愛情がどれほど大きいかを実感した。

1972年から約1995年まで、彼は何度も日本をツアーした。東京の武道館——一万二千人を収容できる有名な会場——の公演は午前も午後もチケットが完売した。一日に二回、一万二千人ずつ。彼はこう振り返った。「そういう条件のもとでは、組織が完璧でなければならないし、すべてのミュージシャンが最高のコンディションでなければならない。」


フルオーケストラでのツアーの他に、ルフェーブルはより親密な特別な出演もあった。1995年、彼と三人のミュージシャンの友人たちは阪神大震災の犠牲者のために四重奏を演奏した。ルフェーブルはフルートを演奏することを選んだ——ピアノではなく。それは感情的な選択で、技術的な選択ではなかった。フルートは彼の青春の楽器であり、カレーの楽器であり、コンセルヴァトワールの楽器だった。


しかし私がルフェーブルの日本の物語の中で最も美しいと思う瞬間は、2000年の東京でのある夜のことだ。

その頃レイモンは健康上の理由でツアーをやめていた——彼はこうはっきり言っていた。「体力が必要だ。毎日新しい都市へ飛行機で移動することもあった。もう続けられなかった。」2000年の日本ツアーは息子のジャン=ミシェルのもので、「ジャン=ミシェル・ルフェーブル指揮によるレイモン・ルフェーブル楽団」という名義で引き継いでいた。

レイモンは観覧のために東京へ飛んだ——しかしジャン=ミシェルに余計なプレッシャーをかけたくないと思い、会場の奥の方にひっそりと座ろうとした。コンサートの終わりに、ジャン=ミシェルは日本の観客に英語でこう言った。「今日は特別な日です。父がパリから飛んできて、この会場にいます。父に感謝を伝えたいと思います。」そして会場全体を横切ってレイモンが座っていた場所まで歩き、彼の手を取ってステージへと導いた。

ジャン=ミシェルは父に「シバの女王」を指揮するよう頼んだ——何年もの間すべての日本公演の最後に演奏された曲で、そのすべてのツアーが実現した理由となった曲だ。

レイモン・ルフェーブルは東京のステージに立ち、指揮棒を手に、涙を流した。長年彼を知っていたミュージシャンたちも泣いた。観客は感動した。

ジャン=ミシェルは父に事前にこう伝えるだけだった。「黒いスーツを着て——後で夕食に行けるかもしれないから。」


日本人がルフェーブルを深く愛したため、2008年に彼が亡くなった後も、ビクターは彼の録音を再版し続けた。新しい市場のためではない。彼の音楽とともに育った世代の日本人がもう一度聴きたい、そして手元に置きたいと思っているからだ。

それはいかなるチャートでも測れない類の愛だ。


第十章:オーケストレーションのスタイル——ルフェーブルをルフェーブルたらしめるもの

よく聞かれる——あるいは自分でも問う——なぜルフェーブルとモーリアとプルセルを区別しなければならないのか、三人はかなり似たサウンドに聞こえるのに、と。

その問いは新しい聴き手には正当だ。三人ともフランスの大管弦楽団のジャンルで、同じ時代、同じイージーリスニングのスタイルだ。三人それぞれのディスクをかけてジャケットを見ずに五分聴いたら、これは誰か言い当てるのは難しいだろう。

しかし注意深く聴けば——私は何年も多くのディスクを通じて注意深く聴いてきたが——違いは確かにあり、それは小さくない。


フランク・プルセルは三人の中で最もすぐに分かる。彼のシグネチャーは、高く舞い上がるバイオリンの音、明るく澄んでいる。下の伴奏は軽く、弦楽器と競い合わない。結果、プルセルの音楽はとても「浮かんでいる」ように聴こえる——軽く、ロマンティックで、角がない。

ポール・モーリアは三人の中で最も大胆だった。オーケストレーションにロックを混ぜることをためらわなかった。「ラブ・イズ・ブルー」——アメリカで一位になった曲——がその最良の例だ。モーリアはアメリカ市場が何を欲しているかを知っており、それを提供した。

そしてルフェーブルは——一言で描写するなら——三人の中で最もバランスがとれていた。プルセルほど「浮かんでいない」が、より深みがある。モーリアほど大胆ではないが、より安定している。かつてこう比較したことがある。モーリアはJ.S.バッハのように——正確で、数学的で、論理的。ルフェーブルはベートーヴェンのように——より細やかで、内省的。その比較はまだ的確だと思っている。


ルフェーブルの独特のサウンドを生み出すのは何か?主に三つの要素があると思う。

第一:ブラスセクションを脇役ではなく主役として使う。

イージーリスニングのオーケストラ音楽では、ブラスはたいてい脇役だ——色を添え、クライマックスで頂点を作り、そして弦楽器に戻る。プルセルでは、ブラスははっきりとはほぼ聞こえない——弦楽器がすべてだ。ルフェーブルでは、ブラスに独自の居場所がある。「ソウル・コーキシング」のトランペットの冒頭——三つのはっきりとした自信に満ちた音符——これは導入ではなく、宣言だ。

第二:ダンス音楽を演奏した人のリズム。

ルフェーブルのリズムセクション——ドラムとベース——はプルセルのものよりも明らかに重い。「重い」とはロック的な意味ではなく、ダンス音楽的な意味で——ベースギターが各音をはっきりと刻み、ドラムが確実にテンポを保つ。彼は多くの年月をダンスホールで過ごした。そこではリズムが十分強くなければ人々は踊れない。その本能が彼の中に染み込んでいた。

第三:フェードアウトではなく完全な終わりを書いた。

これは多くの人が気づかない技術的な点だが、重要だと思う。ルフェーブルはたいてい本当のエンディングを、クラシック曲の結末のように構造を持たせて書いた。彼のオーケストレーションには明確な目的地があり、曖昧に消えていくようなことはない。


私は感情的にはモーリアが最も好きだ——彼の大胆さと新鮮さは私が大切にするものだ。しかし純粋なオーケストレーションの技術の面では、ルフェーブルが三人の中で最も優れていたと思う。最も有名ではなく、アメリカで最も売れたディスクも持たず、最も認識しやすいシグネチャーも持っていない。しかし三人の中から一人を選んで「どんな曲でもアレンジしてください」と言うなら——ルフェーブルを選ぶ。

なぜなら彼は自分のシグネチャーに縛られていなかったからだ。


ルフェーブルのオーケストレーションのスタイルを語って、彼の技術的な基盤に触れないのは大きな欠落だろう。

彼はコンセルヴァトワールでピアノとフルートの両方を学んだ——つまり、まったく異なる二つの角度から音楽に接近したということだ。ピアノは和声楽器だ。複数の音を同時に弾け、和音と構造で考える。フルートは旋律楽器だ。一度に一音しか弾けないので、メロディのラインで、ある音が次の音へとどう導くかで考える。両方を学んだ人は両方の思考様式を発達させる。オーケストラのための編曲を書く際、それは決して小さくない利点だ。


第十一章:ジャン=ミシェル、晩年、そして見えない男の遺産

よく語られるタイプの遺産がある——作品を通じた遺産。音楽は残り、レコードは残り、YouTubeは残る——人は逝っても音楽は逝かない。

あまり語られないタイプの遺産がある——人を通じた遺産。師が弟子に技を伝える。父が息子に伝える。そのような遺産はアルバムジャケットにも受賞リストにも記されないが、より深く流れる。

レイモン・ルフェーブルには、両方の遺産がある。


レイモン・ルフェーブルには二人の息子がいた。長男のベルナールは医学を学んでラ・ロシェルで薬剤師となった——幼い頃ダリダが「私の小さなフィアンセ」と呼んだあの子だ。次男のジャン=ミシェルは1959年生まれ——父がバークレーでのキャリアの絶頂期にいたときだ。父とはまったく異なる音楽的環境で育ったが、同じ真剣な音楽の訓練の基盤を持っていた。正式に音楽を学び、理論を理解し、複数の楽器を弾ける——ピアノ、コントラバス、電子キーボード。

ジャン=ミシェルは父の職業に、それが最も自然なことであるかのように従った。最初の兆候は1970年代末に現れた——1979年のアルバム「トモローズ・シンフォニーズ・デュ・フュチュール(Tomorrow's Symphonies du Futur)」の「プレリュード・ア・ラン・ドゥ(Prélude à l'an Deux)」という曲——当時まだ約二十歳だった。その曲は傑作ではなかったが、父の音楽と並んでリストに存在した。まるで「私は準備できています」と言うように。


1980年代から、レイモンは徐々にジャン=ミシェルにより多く参加させるようになった——自ら作曲した曲を数曲指揮したり、キーボードやコントラバスを弾いたり。日本人は多くのツアーを通じてジャン=ミシェルを見て、徐々に顔を覚えていった。1995年には、アルバム「プラン・ソレイユ(Plein Soleil)」と「ジャポン・モン・アムール(Japon Mon Amour)」で、レイモンとジャン=ミシェル両方の名前がクレジットに並んで登場した。それは非公式だが明確な引き継ぎだった。

誰もがそれをこれほど優雅にできるわけではない。多くのベテランアーティストは忘れられることへの恐れ、不利な比較への恐れ、傷ついたプライドから手放すことを拒む。レイモン・ルフェーブルにはそういったものがなかった。息子が楽団を指揮するのを見て、取って代わられることではなく継続を見ていた。2004年のインタビューでジャン=ミシェルについて聞かれると、彼はこう答えた。「彼は優れた指揮者だ。」誇り高い父として「息子は優れた指揮者だ」とではなく。それは冷静で誠実な職業的評価だった。


2000年以降、ジャン=ミシェルは「ジャン=ミシェル・ルフェーブル指揮によるレイモン・ルフェーブル楽団」という名義で日本ツアーを続けた——2000年、2002年、2004年、2006年。その二重の名前には多くの意味がある。楽団はまだレイモンの名を冠しているが、指揮者はジャン=ミシェルだ。遺産を敬いながら、遺産の影の中に永遠に生き続けない方法だ。


レイモン・ルフェーブルは晩年、静かな場所へと退いた。作曲は減り、聴くことが増えた。アルバム「ドゥ・タン・アン・タン(De Temps en Temps)」(2002年)をリリースした——タイトルは「時々」という意味——キャリアの終盤に差し掛かり、より穏やかな目ですべてを振り返る人にふさわしいタイトルだ。

彼は2008年6月27日、セーヌ=ポール——パリの南東約五十キロのセーヌ川沿いの小さな村——で息を引き取った。何か月も治療を受けていた場所だ。享年七十八歳。

彼はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された——フランスで最も有名な墓地で、エディット・ピアフ、ジム・モリソン、フレデリック・ショパン、その他世界芸術の偉大な名前たちの墓地でもある。ペール・ラシェーズに埋葬されることは誰にでも自動的に起きることではない——それはフランス音楽の歴史における彼の真の地位を反映している。公にはほとんど語られないにもかかわらず。


2010年、父の死から二年後、ジャン=ミシェル・ルフェーブルはアルバム「ア・モン・ペール(A Mon Père)」(わが父へ)をリリースした——レイモン・ルフェーブルの楽団を指揮し、父の最も有名な曲のいくつかを再録音した。商業的なアルバムではなかった——感謝と追悼の手紙だった。


レイモン・ルフェーブルの遺産は多くの場所に存在し、中心は一つではない。

映画音楽において:「憲兵の行進曲」——1964年に楽器なしで庭に座って思い浮かべた曲——は今もフランスのテレビがド・フュネスの映画を再放送するたびに流れる。フランス人はその曲を聴けばすぐルイ・ド・フュネスを、家族で日曜の夜にテレビを見た思い出を思い出す。誰が書いたか誰も覚えていない——しかし音楽はそこにあり、六十年以上経った今も仕事をし続けている。

オーケストラ音楽において:「ソウル・コーキシング」は今も多くの場所でBGMとして使われている。ビニールレコードのコレクターは今もルフェーブルのアルバムを探す。ストリーミングサービスには彼の全ディスコグラフィーがあり、再生回数は特に日本と海外のベトナム人コミュニティで依然かなり良好だ。

ラジオにおいて:ヨーロッパN°1の六つのカリヨンの音符——彼が1956年に作曲し、誰もが彼のものとは知らない六つの音——は何百万ものフランスのラジオ聴衆の記憶に刻まれたままだ。


このエッセイを、音楽や芸術についての総括的な言明では締めくくりたくない。真実のことで締めくくりたい。

彼はカレーで、音楽を愛する父のもとに生まれた。十六歳でリュックを背負ってパリへ行った。昼はコンセルヴァトワールで学び、夜はダンスホールでピアノを弾いた。プルセルと出会い、モーリアと出会い、ダリダと出会い、ド・フュネスと出会い、十回以上も招くほど彼の音楽を愛した日本人たちと出会った。七百以上のオーケストレーションを書き、数十枚のオーケストラアルバムを作り、八十作以上の映画のために音楽を書き、誰も彼のものとは知らない六つのカリヨンの音符を作り、楽器なしで庭で思いついた行進曲を書いた。

そして私にとって——このエッセイを書いている者にとって——彼は1995年頃、遠い従兄弟が一山のカセットテープに録音してくれた音楽の人だ。すり切れるまで聴いたテープたち。途中でぷつりと切れた、タイトルをいまだに知らない曲の入ったテープ。そしてパリで三十ドルずつで買った九枚のディスク。そして通勤の朝、「ダ・トロッポ・テンポ」を聴きながら歌詞を作って口ずさんでいた時間。そして、あれらの歌詞なしのイタリアのオーケストレーションから、知らなかったイタリア音楽の世界全体を発見したこと。

ありがとう、レイモン・ルフェーブル。

あのカセットたちをありがとう——途中で切れた曲のタイトルはまだ知らないけれど。「ソウル・コーキシング」と「シバの女王」と「ダ・トロッポ・テンポ」と、通勤の車の中で聴いたすべての曲をありがとう。誰のために開けているか知らずに開けてくれたイタリア音楽への扉をありがとう。ジャン=ミシェルを——続けてくれている彼を——ありがとう。

あなたの音楽は死んでいない。ただ形を変えただけだ。


参考文献

Raymond Lefèvre — El Maestro de la Orquesta de Calais: Una Vida, una Música y Viajes por el Mundo

Autor: Claude AI, bajo la dirección y edición de Học Trò.


Capítulo Uno: El Primo Lejano y las Siete Casetes

Hacia 1995, tenía un primo lejano — lo llamo "primo lejano" porque honestamente ya no recuerdo bien cuántos grados nos separaban — que tuvo la gentileza de grabarme un montón de casetes desde sus CD, seis o siete en total, toda música de un nombre que yo apenas conocía por entonces: Raymond Lefèvre.

Los llevé a casa y escuché. Luego volví a escuchar. Y seguí escuchando.

Esas casetes las escuché hasta que quedaron "completamente gastadas" — en el sentido más literal: cuando escuchas una casete demasiadas veces el sonido empieza a deformarse, a alargarse como una voz fantasmal en una película de terror — y aun así seguía escuchando. Había una que recuerdo muy bien, con una intro tan hermosa, y de pronto — cortada de golpe. Terminada. No sé si la cinta se rompió o si no había suficiente espacio para grabar el resto, pero nunca pude escuchar esa canción completa. Verdaderamente frustrante. Hasta hoy sigo sin saber cómo se llamaba.

En 1996 tuve la oportunidad de visitar Francia. Y por supuesto, lo primero que se me vino a la mente fue buscar CD de Lefèvre. Pero eran carísimos — treinta dólares americanos por disco de compilación. Treinta dólares seguía siendo una suma considerable en esa época, pero de todas formas compré nueve. Cuando llegué a casa y los escuché, entendí por qué costaban tanto: resultó que la discográfica japonesa Victor había comprado los derechos completos de la música de Lefèvre, los había regrabado en compilaciones temáticas, impresos con alta calidad y vendidos a precios elevados. ¿No te gusta? Bueno, los japoneses no obligaban a nadie. Pero si querías escucharlo todo, la única opción era pagar — y la verdad es que me parecía justo.

Esos nueve discos, con casi doscientas de las mejores piezas de Raymond Lefèvre, fueron la base sobre la que llegué a entender verdaderamente quién era él.


Y luego, muchos años después, durante los trayectos al trabajo en coche, empecé a poner a Lefèvre en el auto. Todo el que hace trayectos largos conoce el hábito de escuchar música orquestal mientras conduce: necesitas algo tranquilo, que no requiera seguir la letra, pero no tan insípido que te duermas. Lefèvre encaja perfectamente. Y naturalmente, durante esos trayectos, me sorprendía inventando letras y cantando — solo un verso o dos, por diversión. Convertí "Un Jour l'Amour" en "El amor vendrá", "Let Me Try Again" (Laisse-Moi Le Temps) en "Siempre te amaré", y "Da Troppo Tempo" en simplemente "¡Recuerdo!" — porque la melodía de esa canción tiene algo de nostálgico y melancólico, y una sola palabra es suficiente.

Uso a menudo la expresión "el trío" para hablar de Lefèvre, Paul Mauriat y Franck Pourcel — tres maestros de la música francesa de casi la misma generación, mismo estilo easy listening, misma época de gloria, todos ligados en la memoria de quienes aman la música orquestal al estilo francés. Los vietnamitas — especialmente la generación de inmigrantes de los años 1980–1990 — compraban mucho este tipo de discos. Era elegante, agradable de escuchar, y no requería entender la letra. Se ponía y la atmósfera de la habitación cambiaba de inmediato.

Pero si se le pregunta a esa generación quién era el más famoso de los tres, la mayoría responderá Paul Mauriat. Tenía "Love is Blue", que llegó al número uno en el Billboard Hot 100 en 1968 — un logro que ni Lefèvre ni Pourcel alcanzaron jamás en el mercado americano. Mauriat también aparecía con más frecuencia, hacía más publicidad, se escribía más sobre él. Franck Pourcel tenía un sonido de cuerdas muy característico — ese estilo de violín que se eleva muy alto y luego desciende como agua que fluye — quien lo escuchaba una vez lo reconocía de inmediato, inconfundible.

¿Y Raymond Lefèvre? Después de escucharlo, reconocí su calidad, pero explicarla es más difícil. Sin una "firma" clara como la de Pourcel. Sin el salto comercial de Mauriat. Lefèvre es alguien que hay que escuchar mucho antes de que cale, antes de entender por qué los japoneses — sí, los japoneses — lo amaban con tanta intensidad que lo invitaron a actuar más de diez veces en menos de veinte años.

La historia de Raymond Lefèvre no es la historia del más famoso del grupo. Es la historia del más interesante — el que tuvo la vida más rica, el que dejó su huella en más ámbitos, y del que cuanto más aprendes, más hay por aprender.


Calais: Los Comienzos en una Ciudad Costera

Raymond Louis Auguste Lefebvre — su nombre real, antes de que la "b" fuera eliminada y se añadiera el acento para obtener "Lefèvre" — nació el 20 de noviembre de 1929 en la ciudad de Calais, en el norte de Francia.

Calais no es París. Ese es el primer punto importante para entenderlo. Calais es una ciudad portuaria, situada en el Canal de la Mancha, a unos treinta kilómetros de la costa inglesa — tan cerca que en un día despejado se puede ver la otra orilla a simple vista. La gente de Calais crece con el sonido de las sirenas de los barcos y el olor del aire salado. Es una ciudad de tránsito, de rutas marítimas, de encuentro entre las culturas francesa e inglesa.

Su familia no era rica. Su madre llevaba una pequeña tienda de ultramarinos en Calais. Su padre usaba una carretilla para recoger víveres durante la guerra — una imagen que él relató en una entrevista de 1995 con voz tranquila, sin quejas. Pero su familia amaba la música. Su padre sabía tocar tres instrumentos — clarinete, piano y violonchelo — no a nivel profesional, pero lo suficiente para crear un ambiente musical en casa desde que Raymond era muy pequeño.

Lo que su padre descubrió cuando Raymond tenía solo seis años fue que el niño tenía oído absoluto. Su padre le hacía darse la vuelta hacia la pared, luego golpeaba teclas individuales en el piano, y Raymond las identificaba todas sin mirar. Esa capacidad — no aprendida sino innata — fue el cimiento sobre el que todo lo demás se construiría.

Raymond aprendió piano y flauta desde niño, a una velocidad asombrosa. En tan solo un mes — el mismo mes en que suspendió el brevet (un examen básico de secundaria) — ganó el primer premio de piano y el primer premio de flauta a nivel local, más una medalla de oro en teoría musical. ¡Tres premios en un mes, y ese mismo mes reprobó el brevet! Contaba esta historia riendo, como si indicara claramente a qué profesión estaba destinado.

En 1946 tomó la decisión: Calais ya no era suficiente. Para llegar a ser alguien, tenía que ir a París.

Tenía solo dieciséis años.


A menudo pienso en esa imagen — un chico de dieciséis años que va solo a París en 1946. Menos de un año después del final de la Segunda Guerra Mundial. París acababa de atravesar cuatro años de ocupación alemana y empezaba a recuperarse, pero aún cargaba muchas heridas sin sanar. En ese contexto, un muchacho de Calais baja de un tren, mochila al hombro, y busca el camino hacia una escuela de música.

Su profesor de flauta en Calais — que aparentemente no tenía mucha fe en él — le había dicho a sus padres: «No se preocupen, no va a pasar, pero al menos sabrá cómo es un examen de admisión al conservatorio.» A pesar de esto, su padre esperaba en silencio que el chico tuviera éxito. Y Raymond fue admitido en el primer intento en el Conservatoire National Supérieur de Musique de Paris.

Entró en la clase de flauta de Marcel Moyse — uno de los más grandes profesores de flauta de Francia en el siglo XX — estudiando armónía al mismo tiempo. Su alojamiento: una pequeña habitación en la Rue Desnouettes en el distrito 15, sin electricidad, sin agua, sin gas. Unas cajas en el suelo como muebles, un colchón prestado por un amigo. Esa era la casa del futuro maestro de la orquesta.

Ocho horas de flauta al día. Ese era el estándar que imponía Moyse, y Raymond lo seguía.


Pero estudiar en una escuela de prestigio no paga la matrícula por ti. Desde el segundo mes tras su ingreso, comenzó a buscar trabajos como pianista en orquestas de baile y conjuntos de variedades en París para ganarse la vida. Tocó en orquestas musette de corte popular — como la de Tony Murena en el dancing Le Mirliton en Rue de Courcelles — y fue subiendo gradualmente hacia formaciones más prestigiosas. No todos pueden hacerlo — estudiar de día en la mejor escuela de música y tocar de noche por dinero. Necesitas resistencia, y necesitas amarlo de verdad. Lefèvre lo amaba de verdad.

Una nota sobre el nombre: en la revista Jazz Hot número 63 de febrero de 1952, aparecía mencionado con su nombre de nacimiento "Lefebvre". Más tarde, hacia 1956 cuando firmó con el sello Barclay, pasó a "Lefèvre" — eliminando la "b" del medio, añadiendo un acento a la "e" del medio — para crear un nombre que luciera mejor, se pronunciara con más claridad y fuera más fácil de recordar en carteles y portadas de discos. Ese pequeño detalle dice algo sobre el hombre: era pragmático. Entendía que la música es un arte, pero también una profesión.


Capítulo Dos: El Jazz, los Bailes y un Hombre Llamado Hubert Rostaing

El jazz no llegó a Lefèvre porque lo buscara. Llegó porque necesitaba dinero.

Pero cuando alguien necesita dinero y se encuentra haciendo un trabajo que ama, esa "necesidad de dinero" inicial tiende a convertirse en pasión sin que uno se dé cuenta. Lefèvre comenzó a tocar el piano en orquestas de baile y conjuntos de variedades en París hacia 1946–1947, y en pocos años se había convertido en uno de los pianistas más solicitados en la escena de jazz y baile de la ciudad.

En 1949 se unió a la banda de Hubert Rostaing — un clarinettista y saxofonista francés con nombre en el mundo del jazz parisino de la época. Rostaing fue uno de los primeros en adoptar el bebop americano y lo trajo a París. Su banda era bastante dinámica, actuaba en los clubs de jazz del barrio de Saint-Germain-des-Prés y salía de gira por la Riviera. Al unirse a esa banda, Lefèvre no era simplemente un pianista — comenzó a aprender el oficio del arreglista, es decir, escribir las partes de acompañamiento y apoyo para los demás instrumentos.

Fue un punto de inflexión. Los buenos pianistas son muchos. Los que saben escribir arreglos — que deciden qué instrumento toca qué nota, dónde y cuándo — son mucho menos. Lefèvre pertenecía a ese grupo reducido.

A principios de los años cincuenta también trabajó con el saxofonista y flautista belga Bobby Jaspar — un músico de jazz de cierto renombre en el mundo musical parisino de la época. Esa temprana exposición a numerosos músicos de jazz internacionales ayudó a Lefèvre a construir una base armónica mucho más amplia que quien solo hubiera estudiado en el aula.


Tras Rostaing, pasó a la banda de Bernard Hilda — un peldaño más arriba. Bernard Hilda dirigía entonces la orquesta de cabaret más famosa de París: La Villa d'Este. Tocó el piano allí, sustituyendo a Raymond Bernard que había salido de gira a Estados Unidos con la cantante Jacqueline François. Recordaba: «Me acababa de casar y pensaba que era el pianista mejor pagado de París en esa época.»

Hilda no se quedó en París. Llevó la banda de gira por toda Europa — Italia, España, Mónaco — e incluso a los Estados Unidos, tres meses en el Hilton Hotel de Los Ángeles. Lefèvre siguió a Hilda en esos viajes, y a través de ellos estuvo expuesto a música de muchas fuentes distintas: cha-cha-cha de Cuba, bolero de México, música de cámara de Italia, jazz de Nueva York. En Los Ángeles tuvo la oportunidad de conocer a muchos músicos de jazz americanos — un bagaje de experiencia que ningún aula podía enseñar.


Pero el encuentro más importante de este período fue con Franck Pourcel.

Pourcel ya era un nombre por entonces. Tenía su propia gran orquesta, había firmado un contrato discográfico con Pathé-Marconi. Violinista marsellés, Pourcel había construido un sonido inconfundible: líneas de violín que se elevan muy alto, brillantes y claras. Fue a casa de Lefèvre en la Rue de Vaugirard un día a mediados de los años cincuenta — cuando Lefèvre estaba desbordado de trabajo — y le pidió que escribiera unos arreglos para el cantante André Claveau, y luego para Gloria Lasso. Los dos trabajaron bien juntos y se hicieron amigos cercanos.

También a través de Pourcel, Lefèvre conoció a Paul Mauriat — que entonces estaba en los inicios de su carrera, también construyendo su propia orquesta. Los tres tenían suficiente en común para hacerse amigos: todos formados clásicamente pero atraídos por la música popular, todos trabajando en la intersección entre la formalidad de la sala de conciertos y el placer de la música de baile.

Pero los tres también eran diferentes entre sí en aspectos importantes. Mauriat era el más experimental de los tres. Pourcel era considerablemente más conservador en el sonido. Y Lefèvre se situaba en algún punto intermedio — pero no de forma insípida. Hacía hincapié en la sección rítmica y en los metales de una manera que Pourcel raramente hacía. La música de Lefèvre tenía cierto "rebote", un ritmo que empujaba hacia adelante, que creo provenía de sus años tocando música de baile y jazz.


En 1956, tres cosas ocurrieron simultáneamente cambiando por completo la dirección de su vida. Primero, firmó un contrato con el sello Barclay. Segundo, formó su propia gran orquesta con su nombre. Y tercero, comenzó a colaborar con una cantante de origen egipcio e italiano llamada Dalida.


Capítulo Tres: Barclay Records, Dalida y Septiembre de 1956

Septiembre de 1956 fue el mes en que todo sucedió a la vez.

Lefèvre tenía que elegir entre dos sellos: Polydor (dirigido artísticamente en ese momento por Paul Durand) y Barclay. Eddie Barclay — de voz suave, oído musical fino, y extraordinariamente hábil para descubrir talentos — fue personalmente a casa de Lefèvre para convencerlo. Lefèvre le pidió opinión a Pourcel, y Pourcel dijo directamente: «Barclay es más moderna que Polydor.» Así que Lefèvre firmó con Barclay. Y Eddie Barclay, con su voz característicamente suave, le dijo: «Eh bien, tu le feras chez moi!» (¡Pues entonces lo harás en mi casa!)

Junto con Dalida, por primera vez Lefèvre constituyó oficialmente el "Raymond Lefèvre et son grand orchestre" — y al mismo tiempo recibió también la dirección musical de Europe N°1, la recién nacida estación de radio comercial.


Dalida no era francesa. Había nacido en 1933 en El Cairo, Egipto, en una familia de origen italiano — su padre era un violinista calabrés. Creció en Egipto, aprendiendo italiano y árabe desde niña, luego francés, griego y más tarde español. Esa capacidad de cantar en varios idiomas era muy rara, y la principal razón por la que su carrera se extendió a tantos mercados distintos.

En 1956 ganó el concurso Reine du Bal y llamó la atención de Eddie Barclay. Este la fichó e inmediatamente encargó el arreglo de su primera grabación a Raymond Lefèvre. Esa canción era "Bambino".


La sesión de grabación de "Bambino" tuvo lugar en septiembre de 1956 en el estudio de la Rue Magellan en París. Lefèvre dirigía la orquesta, Dalida cantaba en directo junto a la formación — no como se hace hoy, con la voz grabada por separado después. En aquella época la regla era tres horas para grabar cuatro canciones, sin mucho margen para errores.

Y Dalida cometió un error.

En el segundo estribillo cantó «ce n'est pas ça que dans son cœur te vieillira» en lugar de «ce n'est pas ça qui dans son cœur te vieillira» — un pequeño pero claro error gramatical. Ya habían superado el tiempo asignado para la sesión, sin dinero para regrabar. Así que el error se quedó en la grabación. "Bambino" vendió millones de copias con ese error gramatical — y nadie se quejó, o si lo hicieron, nadie les hizo caso.

Lefèvre contaba esta historia con una sonrisa. Le tenía cariño a Dalida, y su relación iba más allá del estudio de grabación. Dalida solía visitar a Lefèvre en su casa, trayendo regalos para sus dos hijos. Con su hijo mayor Bernard bromeaba: «Tú eres mi pequeño prometido.» Cuando Dalida se casó en 1961, el pequeño Bernard — todavía muy joven en ese entonces — puso cara de pena y protestó: «¡No, no, soy yo quien está prometido con ella!»



"Bambino" fue un éxito inmediato. Le siguió una serie de arreglos para Dalida que Lefèvre se encargó durante seis años — "Gondolier", "Ciao Ciao Bambina", "Love in Portofino", "O Sole Mio", "La Chanson d'Orphée" — y a través de esas canciones acumuló un profundo conocimiento de la música italiana que más tarde se convirtió en un activo propio.

Además de Dalida, Lefèvre también se encargó de los arreglos para muchos otros artistas de Barclay durante este período: Frida Boccara, Eddie Constantine, Mireille Mathieu, Rika Zaraï y muchos otros. Fue la época en que aprendió a escuchar una voz y decidir qué acompañamiento era adecuado — no tan fuerte como para tapar al cantante, no tan suave como para perder toda la fuerza.


No se puede pasar por alto el hecho de que Lefèvre también representó a Mónaco en el Festival de Eurovisión a principios de los años sesenta — incluida Françoise Hardy en 1963 con "L'amour s'en va". Una anécdota divertida: cuando Lefèvre le dijo a Pourcel el caché que había recibido de Mónaco, Pourcel se sorprendió y usó inmediatamente esa información para exigir un salario equivalente a la parte francesa. Y lo consiguió. Luego agradeció a Lefèvre muy calurosamente.


Capítulo Cuatro: El Grand Orchestre, la Televisión Francesa y Quince Años con Guy Lux

Ya a finales de 1956, en paralelo con el lanzamiento de su carrera discográfica, Louis Merlin y Lucien Morisse de Europe N°1 confiaron a Lefèvre la dirección musical del programa Musicorama — emitido en directo los martes por la noche desde el escenario del Olympia en París, tras los ensayos de la tarde del mismo día. Pocas personas tenían televisión en aquella época, así que este programa de radio atraía a un público enorme.

E hizo algo que pocos saben: compuso la sintonía de Europe N°1. Esas seis famosas notas musicales — ese característico sonido de carillón que millones de franceses escuchaban cada día al encender la radio — fueron compuestas por Raymond Lefèvre.

Seis notas. Escuchadas millones de veces. Nadie recuerda quién las escribió.


Pero la fase más importante de la carrera televisiva de Lefèvre no fue Musicorama. Fue Palmarès des Chansons — un programa musical de televisión presentado por Guy Lux, lanzado en septiembre de 1965 en el primer canal de la ORTF.

Lefèvre y Guy Lux ya se conocían antes — cuando Lefèvre, junto con Paul Mauriat y el escritor Jean Broussolle, compuso la sintonía de Intervilles, el concurso televisivo de Guy Lux que comenzó en 1962. Esa sintonía se llamaba "De ville en ville" — al igual que la "Boisderose March" escrita para el programa Télé Dimanche de Raymond Marcillac, interpretada por cuatro famosos acordeonistas entre ellos Marcel Azzola, Gilbert Roussel y Joss Baselli. Esas sintonías se grabaron tan profundamente en la mente del público francés de los años sesenta que muchos todavía las recuerdan hoy sin saber quién las compuso.

Cuando Palmarès des Chansons se lanzó en septiembre de 1965, Guy Lux le pidió a Lefèvre que asumiera el cargo de director musical. Y Lefèvre permaneció con ese programa durante más de quince años consecutivos.


Palmarès des Chansons se emitía en directo desde el Estudio 102 de la Maison de la Radio en la avenida del Président-Kennedy en París. La presión no era poca: quince o dieciséis canciones debían ensayarse antes de la emisión — llegaba a la 1:30 PM para emitir a las 8:30 PM. Tras cada emisión, al día siguiente los cantantes de la semana siguiente empezaban a venir a su casa para indicarle su tesitura e información sobre la canción que iban a interpretar. Su sala de estar, decía, «parecía una sala de espera de médico». Semana tras semana, durante más de quince años.

Jean-Loup Lafont escribió en France Soir en 1976: «Es el Karajan de Guy Lux.» — un comentario que era a la vez un elogio y una descripción precisa del papel de Lefèvre en el ecosistema televisivo francés de esa época.

Después de Palmarès des Chansons, también fue director musical de Cadet Rousselle — el programa de Guy Lux que comenzó en 1971 — y compuso su sintonía a partir de la melodía de la canción popular del mismo nombre. Posteriormente, esa sintonía se convirtió en la música de apertura de sus conciertos en Japón.


A través de Palmarès des Chansons, Lefèvre acompañó a casi todos los grandes nombres de la música francesa de esa época. Dalida — por supuesto. Claude François. Richard Anthony. Y Jacques Brel, de quien Lefèvre dijo que era el artista que más admiraba de todos con quienes había colaborado: «Brel era la mejor persona que he conocido en este oficio. Era a la vez talentoso y buena persona.» Viniendo de alguien como Lefèvre — que había trabajado junto a decenas de las mayores estrellas de Francia durante más de veinte años — esa frase tiene un peso real.


Pero quizás pocos saben que Lefèvre fue también coautor de una de las canciones francesas más famosas del mundo, bajo un seudónimo.

En 1961, tres amigos — Franck Pourcel, Paul Mauriat y Raymond Lefèvre — solían reunirse en casa de Pourcel en París para trabajar. Y una tarde de 1961, esos tres compusieron juntos la melodía de "Chariot".

Pourcel estaba convencido de que la canción sería un éxito. Para maximizar sus posibilidades, los tres acordaron usar seudónimos — los nombres franceses serían vistos como provincianos comparados con los nombres americanos o italianos. Pourcel se convirtió en J.W. Stole. Mauriat en Del Roma. Y Lefèvre eligió F. Burt — «una palabra corta, fácil de pronunciar en las radios extranjeras». El poeta Jacques Plante escribió la letra y también fue invitado a guardar el secreto. Incluso difundieron el rumor de que era una canción americana adaptada al francés.

Petula Clark fue la primera en cantar "Chariot". La canción fue un gran éxito. Unos meses después la verdad salió a la luz: había sido escrita por dos marselleses — Pourcel y Mauriat — y un hombre del Norte (Lefèvre). En Estados Unidos la canción fue rebautizada "I Will Follow Him" — cantada por Little Peggy March en 1963, llegando al número uno en el Billboard. Décadas después, la canción apareció en la película Sister Act con Whoopi Goldberg.

Dos marselleses y un hombre de Calais habían escrito un éxito mundial — bajo nombres que sonaban a ítaloamericanos.


Capítulo Cinco: Louis de Funès, los Gendarmes y la Música de la Risa

En 1963, Paul Mauriat recibió una invitación del editor Robert Salvet para componer la música de la película "Faites sauter la banque" del director Jean Girault con Louis de Funès. Como los dos estaban trabajando juntos en ese período, Lefèvre se unió. El resultado fue bueno, y Jean Girault recordó el nombre de Lefèvre.

En 1964, Girault invitó a ambos a componer la música para la siguiente película: "Le Gendarme de Saint-Tropez" — la película que después se convertiría en un fenómeno del cine cómico francés. La canción "Douliou-Douliou Saint-Tropez", cantada por Geneviève Grad (que interpretaba a la hija de de Funès), fue grabada antes del rodaje porque necesitaba reproducirse en el set.

Pero la banda sonora propiamente dicha — la música que había que escribir para acompañar cada escena — nació de una manera muy particular.


Finales de julio, principios de agosto de 1964. Paul Mauriat, ya cansado, le dijo a Lefèvre: «¡Me voy de vacaciones!» y desapareció. Jean Girault llamó a Lefèvre preso del pánico: «No puedes abandonarme — no queda nadie en París ahora mismo.»

Lefèvre estaba en la pequeña casa de campo que acababa de comprar en la región del Oise. Le dijo a Girault: «Bien, si tu asistente me trae el guion y la lista de escenas que necesitan música hasta el Oise, escribo.»

Así que se sentó en su jardín — sin piano, sin ningún instrumento en la mano, solo el guion y el jardín silencioso de mediados de agosto — y escribió toda la banda sonora de la película. La "Marche des Gendarmes" — la pieza que Jean Girault quería al estilo de "Colonel Bogey March" de la película El puente sobre el río Kwai — nació así. Sin instrumento, sin piano. Solo su mente y ese oído entrenado desde los seis años cuando su padre lo ponía a prueba con las notas del piano mirando hacia la pared.

El resultado: una de las bandas sonoras más reconocibles de la historia del cine francés.


Louis de Funès era un fenómeno del cine cómico francés. Bajo, ágil, con un rostro de expresividad extraordinaria — se decía a menudo que su cara era su propio "instrumento". En el set, Lefèvre y de Funès se sentaban y hablaban largamente — ambos habían pasado en su juventud por un período tocando música en cabarés y salones de té parisinos para ganarse la vida. De Funès contaba sus años como pianista en Pigalle, y Lefèvre evocaba sus años tocando el piano para pagar sus estudios en el Conservatoire. Los dos hablaban tanto que el director Jean Girault se quedaba de pie esperando sin saber qué hacer. De Funès también envió una carta a Lefèvre después de la película "Les Grandes Vacances" (1967), elogiando la banda sonora — una carta que Lefèvre dijo guardar con mucho aprecio.

Lefèvre compuso la música para las seis películas de la serie de los Gendarmes — un recorrido de casi veinte años de 1964 a 1982, abarcando todos los estilos musicales desde el twist (primera película) al sintetizador (última). A partir de la tercera película, escribió solo, sin Mauriat.


Hablando de las bandas sonoras de Lefèvre, no se puede omitir "Jo" (1971) — la comedia de misterio de Girault con de Funès, coproducida por la MGM France. Lefèvre convenció a Girault de dejar que la música se inclinara más hacia el thriller que hacia la comedia. Era el razonamiento de alguien que entendía las bandas sonoras a un nivel más profundo.


Y hay una anécdota sobre su música para el cine que encuentro a la vez divertida y conmovedora: la película "La Soupe aux Choux" (1981). Cuando le pidieron que escribiera el tema para el tráiler de la película, Lefèvre no quería contratar a treinta músicos solo para grabar un breve extracto. Fue al estudio de Guy Boyer en Boulogne-Billancourt, se sentó solo ante un sintetizador — y no sabía usarlo. Pulsaba teclas al azar, conservando los sonidos que le gustaban y descartando los demás. Dieciséis pistas, enteramente por ensayo y error.

Cuando el productor Christian Fechner vino a escuchar, exclamó: «¡Excelente, no cambie nada!» Y ese borrador se usó tal cual para toda la película.

Hacia 2006 — casi veinticinco años después — más de cuatrocientos mil japoneses descargaron esa pieza como tono de llamada de teléfono. Lefèvre no podía haberlo previsto aquella tarde en que se sentó pulsando aleatoriamente los botones de un sintetizador en un estudio en Boulogne-Billancourt.


Capítulo Seis: "Âme Câline", "La Reine de Saba" y una Música que Dio la Vuelta al Mundo

1968 fue un año especial en la carrera internacional de Lefèvre. Toda Europa hervía con el movimiento estudiantil — el Mayo del 68 en París, las protestas antibelicistas en Estados Unidos, el rock en su apogeo con Jimi Hendrix y Janis Joplin. En ese contexto, un arreglo orquestal de estilo francés llegó al cuarto puesto de la lista de easy listening americana.

Esa pieza era "Soul Coaxing" — o "Âme Câline" en francés.


"Âme Câline" era originalmente de Michel Polnareff — un músico francés excéntrico y muy talentoso. Lefèvre la escuchó y reconoció algo en la melodía que se adaptaba a su estilo orquestal. Tomó la melodía, eliminó la letra y reescribió la orquestación completamente desde cero. Su versión — publicada a principios de 1968 en Estados Unidos bajo el título "Soul Coaxing" — presenta violines y trompeta al frente, con una sección rítmica lo suficientemente sólida para evitar lo insípido pero lo suficientemente ligera para no aplastar la melodía.

El resultado: "Soul Coaxing" llegó al número 37 del Billboard Hot 100 y al número 4 de la lista de Easy Listening. En el Reino Unido alcanzó el número 46. Pero más importante que las listas: esta pieza se convirtió en la sintonía de al menos tres grandes emisoras de radio europeas durante muchos años — Radio Caroline, Radio Luxembourg y la británica Chiltern Radio Supergold. La BBC World Service la usó incluso como sintonía de la serie documental "Network UK" en los años ochenta.


Pero la pieza que verdaderamente cambió su vida — no en Francia, no en América, sino en Japón — fue "La Reine de Saba".

"La Reine de Saba" (La Reina de Saba) es una pieza que Lefèvre grabó en 1969 — una gran orquestación con ricos arcos, una prominente sección de metales en el clímax, y una melodía con algo evocador del misterioso Oriente. Publicada en Europa, no causó especial impresión allí. Pero en Japón se convirtió en un fenómeno — llegando al número 26 del Oricon y permaneciendo en él durante 110 semanas consecutivas. Casi dos años. Total de copias vendidas: 322.600.

Ese número llevó a todo lo que siguió.


Desde 1958, su orquesta había comenzado a grabar y publicar sus propios discos. El primer arreglo que realmente tuvo un impacto internacional fue "The Day the Rains Came" — la versión sin letra del "Le Jour où la pluie viendra" de Gilbert Bécaud. En Estados Unidos llegó al número 30 del Billboard Hot 100 y al número 14 del Honor Roll of Hits en 1958 — la primera vez que el nombre de Raymond Lefèvre aparecía en las listas del mercado anglófono.

Sobre el tamaño de la orquesta: para sus álbumes orquestales, Lefèvre utilizaba hasta cuarenta y cinco músicos. Cuerdas: dieciocho violines (en su mayoría de la Ópera de París y la Garde Républicaine), seis violas, cuatro violonchelos, un contrabajo, y normalmente un arpa tocada por la artista Lily Laskine. Cuando se necesitaban metales: tres trompetas, tres trombones, de uno a tres trompas. Y por supuesto: piano, bajo, batería, guitarra.

Esa orquesta — cuarenta y cinco personas — era el verdadero instrumento de Raymond Lefèvre. No tocaba guitarra ni piano ante el público. Tocaba esa orquesta, con la batuta del director.


Capítulo Siete: San Remo, la Música Italiana y la Puerta de Entrada a la Música Italiana

Raymond Lefèvre tenía una relación especial con la música italiana — no el tipo de admiración a distancia, sino el de alguien que había escuchado y tocado música italiana desde su juventud, desde los años en que seguía a Bernard Hilda de gira por todo el Mediterráneo.

La música italiana tiene cosas que la música francesa — por mucho que yo ame la música francesa — a veces no tiene: una riqueza melódica, una pasión sin reservas, la manera en que una melodía sencilla puede llevar consigo todo un cielo y todo un mar. Piensa en "O Sole Mio" o "Volare" o "Non ho l'età" y lo sientes de inmediato. Lefèvre lo entendió pronto. Y cuando comenzó a construir su propia orquesta, la música italiana siempre estaba representada en su lista de piezas para versionar y arreglar.


El Festival de San Remo — festival musical anual en la pequeña ciudad costera ligur de Italia — es el lugar donde cada año se reúnen las mejores canciones de Europa. Desde sus inicios en 1951, San Remo ha producido canciones que se convirtieron en clásicos: "Volare" (1958), "Azzurro" (1968 — Adriano Celentano), "Che sarà" (1971). Lefèvre estuvo ligado a San Remo desde el principio — a través de Dalida, que participó en San Remo 1958 con "Gondolier" para la que escribió el arreglo. Pero su conexión más especial con el festival llegó a través del álbum "Festival de San Remo 73" (1973, Riviera GP-317) — un álbum en el que grabó las diez canciones del San Remo 1973 en forma orquestal sin letra.

Entre esas diez piezas había títulos que la discográfica japonesa Victor compiló más tarde en un CD separado: "Da Troppo Tempo", "Un Grande Amore E Niente Piú", "Io Che Non Vivo", "Paroles-Paroles", "Storie Di Tutti I Giorni", "Donna Con Te", "Le Colline Sono In Fiore", "Qui Saura". Junto al disco de música italiana, la compilación incluía también un disco de chanson francesa titulado "Hymne à L'Amour" y un disco de clásica divulgativa "Raymond Lefèvre Pop Classical". Esos tres discos fueron lo que los oyentes japoneses de los años noventa conocían de Lefèvre.


Y también fue lo que yo conocí de él.

Lo digo porque hay una parte de mi trayectoria musical que creo que poca gente nota: no llegué a la música italiana de forma directa. Llegué a ella a través de la puerta de Lefèvre.

Las piezas del CD Victor Japan "Da Troppo Tempo" — que compré en París en 1996 al precio desorbitado de treinta dólares — cuando las escuché por primera vez solo sabía que era bella música italiana. La melodía de "Da Troppo Tempo" tiene algo de nostálgico y melancólico, un tipo de añoranza en que no sabes muy bien qué es lo que echas de menos — «Aún piensa en ti, cuando llega el frío», me lo traduje a mi manera. "Un Grande Amore E Niente Più" se traduce como "Un gran amor y nada más" — suena a la vez triste y bello, a la manera italiana. "Io Che Non Vivo" — "Yo que no vivo" — el propio título ya es un verso de poema. Y "Parole-parole" — la canción que Dalida y Alain Delon cantaron juntos, llena de promesas vacías — escuchándola en la versión orquestal sin letra de Lefèvre, te das cuenta de que la melodía es en realidad mucho más triste que las palabras.

A partir de esas piezas orquestales sin letra, comencé a buscar los originales. Y a partir de los originales, descubrí un mundo más amplio de música italiana contemporánea. Lefèvre fue esa puerta. Sin esas orquestaciones, quizás nunca hubiera sabido que "Da Troppo Tempo" era una canción italiana clásica. Abrió una puerta sin saber que la estaba abriendo para alguien.


Además de San Remo, Lefèvre seguía y versionaba la música italiana desde muchos otros ángulos. El álbum "Canzone" (1991, Victor VICP-166) es uno de sus álbumes italianos más puros — publicado en Japón, porque los japoneses aman la música italiana casi tanto como los italianos. Los 57 minutos del álbum están llenos de orquestaciones de canciones italianas románticas — desde la canción napolitana al pop italiano contemporáneo.

La música latina. Es otro rincón de la carrera de Lefèvre que el gran público apenas conoce. El álbum "Suite Latine" (1981) — diez piezas enteramente latinas y españolas — demuestra que no padecía del chovinismo musical francés. Muchos maestros de la música francesa de su generación tenían una visión algo cerrada hacia la música extranjera: Francia es el centro, los demás países son periféricos. Lefèvre no era así. Escuchaba música de todas partes sin hacer distinciones. Esa actitud es una de las razones por las que su música se difundió tan ampliamente.


Capítulo Ocho: Soul Symphonies — Cuando la Música Clásica se Viste de Nuevo

En 1971, Lefèvre publicó un álbum con un título aparentemente contradictorio: "Soul Symphonies".

"Soul" — una palabra inglesa, que evoca la música soul de Aretha Franklin y Marvin Gaye. "Symphonies" — la música clásica europea, la palabra de los compositores empolvados de Viena de los siglos XVIII y XIX. Las dos no parecen pertenecer a la misma frase.

Pero lo que Lefèvre quería decir con ese título no era que estuviera literalmente mezclando soul y sinfonía. Estaba diciendo que estas piezas clásicas tienen "alma" — y esa alma necesita ser escuchada por más personas, no solo por quienes van a las salas de concierto en traje y corbata.

"Soul Symphonies No. 1" (1971) se abría con el "Adagio de la Sonate Pathétique de Beethoven". "Back to Bach" (1975) era un álbum dedicado enteramente a J.S. Bach — el compositor que Lefèvre admiró toda su vida. Cuando le preguntaron si sus ingresos por este álbum podrían superar lo que Bach ganó en toda su vida, se rió y dijo: «¡Eso es injusto! Bach merecía mucho más.»

Lefèvre recibió muchas cartas de oyentes que le decían que gracias a estos álbumes se habían enamorado de la música clásica por primera vez — «Gracias a usted, descubrí y aprendí a apreciar la música clásica.» Lefèvre era esa puerta de entrada. Me identifico con ello — porque Lefèvre fue también mi puerta hacia la música italiana.


Hay un detalle de este período que encuentro interesante: en 1970, Lefèvre arregló una obra de Vangelis — entonces todavía músico del grupo Aphrodite's Child, aún no famoso mundialmente como lo sería después — como tema para el festival Golden Rose of Montreux. En 1970, Lefèvre ya tenía la sensibilidad para reconocer el talento de un joven músico griego desconocido.

Y en 1987, William Sheller — un destacado músico francés — invitó a Lefèvre a dirigir la orquesta para "L'Empire de Toholl", una ópera-cantata en el álbum "Univers". Es una señal de que incluso después de retirarse de la televisión, Lefèvre seguía siendo alguien con quien los grandes músicos querían trabajar.


Capítulo Nueve: Japón — Un Amor Inexplicable

En 1972, Raymond Lefèvre pisó Japón por primera vez para una gira de dieciocho ciudades. Ya era famoso allí desde 1969 gracias a "La Reine de Saba", pero fue solo al estar sobre un escenario japonés que comprendió verdaderamente cuán grande era ese afecto.

De 1972 a alrededor de 1995, realizó muchas giras en Japón. Las actuaciones en el Budokan — la famosa sala de Tokio con capacidad para doce mil personas — agotaban las entradas tanto en las sesiones matutinas como en las vespertinas. Doce mil personas, dos veces en un mismo día. Recordaba: «En esas condiciones, la organización debe ser perfecta y todos los músicos deben estar en su mejor momento.»


Más allá de las giras con la orquesta completa, Lefèvre también tuvo apariciones especiales más íntimas. En 1995, él y tres amigos músicos se sentaron a tocar un cuarteto en favor de las víctimas del terremoto de Kobe. Lefèvre eligió tocar la flauta — no el piano. Fue una elección emocional, no técnica. La flauta era el instrumento de su juventud, de Calais, del Conservatoire.


Pero el momento que considero el más hermoso de toda la historia japonesa de Lefèvre es una tarde en Tokio en el año 2000.

Para entonces, Raymond había dejado de hacer giras por razones de salud — lo dijo claramente: «Hay que tener salud. Había veces en que viajábamos a una ciudad nueva cada día con todos los vuelos. Ya no podía continuar.» La gira japonesa de 2000 pertenecía a su hijo Jean-Michel, que había tomado las riendas de la orquesta con el nombre "L'Orchestre de Raymond Lefèvre dirigé par Jean-Michel Lefèvre".

Raymond voló a Tokio para asistir — pero trató de sentarse escondido en el fondo de la sala, para no poner bajo presión a Jean-Michel. Al final del concierto, Jean-Michel dijo en inglés al público japonés: «Hoy es un día especial. Estoy muy feliz porque mi padre acaba de llegar de París y está aquí en la sala. Quiero decirle gracias.» Luego cruzó toda la sala hasta donde Raymond estaba sentado, le tomó de la mano y lo llevó al escenario.

Jean-Michel le pidió a su padre que dirigiera "La Reine de Saba" — la pieza final de cada concierto japonés a lo largo de los años, la pieza gracias a la cual todas esas giras habían sido posibles.

Raymond Lefèvre se encontró sobre el escenario de Tokio, batuta en mano, y lloró. Los músicos que lo conocían desde hacía años también lloraron. El público se conmovió.

Jean-Michel solo le había dicho a su padre antes: «Ponte el traje negro — quizás podamos salir a cenar después.»


Los japoneses amaban a Lefèvre tan profundamente que después de su muerte en 2008, el sello Victor siguió reeditando sus grabaciones. No para un mercado nuevo. Sino porque la generación de japoneses que creció con su música quería volver a escucharla, y tenerla.

Ese es el tipo de amor que ninguna lista puede medir.


Capítulo Diez: El Estilo de Orquestación — Qué Hace que Lefèvre Sea Lefèvre

A menudo me preguntan — o me lo pregunto yo mismo — por qué hay que distinguir entre Lefèvre, Mauriat y Pourcel cuando los tres parecen sonar de manera bastante similar.

Esa pregunta es legítima para un oyente nuevo. Los tres son del género de la gran orquesta francesa, misma época, mismo estilo easy listening. Si pones un disco de cada uno y escuchas cinco minutos sin mirar la portada, sería difícil decir quién es quién.

Pero si escuchas con más atención — y yo he escuchado con atención, a lo largo de muchos años y muchos discos — las diferencias están ahí, y no son pequeñas.


Franck Pourcel es el más inmediatamente reconocible de los tres. Su firma es ese sonido de violines que se elevan muy alto, brillante y claro. El acompañamiento por debajo es ligero, sin competir con las cuerdas. El resultado es que la música de Pourcel suena muy "aérea" — ligera, romántica, sin aristas.

Paul Mauriat era el más audaz de los tres. No dudaba en mezclar el rock en la orquestación. "Love is Blue" — la canción que llegó al número uno en América — es el mejor ejemplo. Mauriat sabía lo que el mercado americano quería y se lo daba.

Y Lefèvre — si tuviera que describirlo en una frase — era el más equilibrado de los tres. No tan "aéreo" como Pourcel pero con más profundidad. No tan audaz como Mauriat pero más sólido. Una vez hice esta comparación: Mauriat es como J.S. Bach — preciso, matemático, lógico; Lefèvre es como Beethoven — más matizado, más introspectivo. Esa comparación aún me parece acertada.


¿Qué crea el sonido distintivo de Lefèvre? Creo que hay tres elementos principales:

Primero: la sección de metales se usa como voz principal, no como voz secundaria.

En la música orquestal easy listening, los metales suelen desempeñar un papel de apoyo: añadir color, proporcionar picos en los clímax, y luego ceder el paso a las cuerdas. En Pourcel, apenas se escuchan los metales claramente — las cuerdas son todo. En Lefèvre, los metales tienen su propio espacio. La apertura de trompeta de "Soul Coaxing" — tres notas claras, confiadas — no es una introducción, es una declaración.

Segundo: el ritmo de un hombre que tocó música de baile.

La sección rítmica de Lefèvre — batería y bajo — es notablemente más marcada que la de Pourcel. No "pesada" en el sentido del rock, sino pesada como en la música de baile: el bajo articulando claramente cada nota, la batería marcando el tiempo de forma sólida. Pasó años en salones de baile, donde si el ritmo no era suficientemente fuerte la gente no podía bailar. Ese instinto se imprimió en él.

Tercero: escribía finales completos en lugar de fundirse en el silencio.

Este es un punto técnico que pocas personas notan pero que creo importante. Lefèvre solía escribir un final real, estructurado, como la conclusión de una pieza clásica. Sus orquestaciones tienen un destino claro, no una vaga disolución en el silencio.


Me gusta Mauriat más a nivel emocional — tiene esa audacia y frescura que valoro. Pero en términos de técnica de orquestación pura, creo que Lefèvre fue el más notable de los tres. No era el más famoso, no tenía el disco más vendido en América, no tenía la firma más reconocible. Pero si tuviera que elegir a uno de los tres y decirle: "Arregla cualquier canción que te proponga" — elegiría a Lefèvre.

Porque no estaba limitado por su propia firma.


Hablar del estilo de orquestación de Lefèvre sin mencionar su formación técnica sería una omisión grave.

Estudió tanto piano como flauta en el Conservatoire — lo que significa que se acercó a la música desde dos ángulos completamente diferentes. El piano es un instrumento armónico: puedes tocar muchas notas a la vez, piensas en acordes y estructura. La flauta es un instrumento melódico: solo puedes tocar una nota a la vez, así que piensas en líneas melódicas, en cómo una nota lleva a la siguiente. Alguien que estudió ambos desarrolla ambos modos de pensar. Esa es una ventaja nada despreciable cuando se escriben arreglos para una orquesta.


Capítulo Once: Jean-Michel, los Últimos Años y el Legado de un Hombre Invisible

Hay un tipo de legado del que se habla a menudo: el legado a través de las obras. La música permanece, los discos de vinilo permanecen, YouTube permanece — la persona muere pero la música no.

Hay un tipo de legado del que se habla menos: el legado a través de las personas. El maestro que transmite el oficio al discípulo. El padre que lo transmite al hijo. Ese tipo de legado no puede inscribirse en la portada de un disco ni en una lista de premios, pero va más profundo.

Con Raymond Lefèvre, ambos tipos de legado están presentes.


Raymond Lefèvre tenía dos hijos. Bernard, el mayor, estudió medicina y se convirtió en farmacéutico en La Rochelle — el que Dalida había "reclamado" como su pequeño prometido cuando era niño. Jean-Michel, el menor, nació en 1959 — cuando su padre estaba en el apogeo de su carrera en Barclay. Creció en un entorno musical completamente diferente al de su padre, pero con la misma base de formación musical seria: estudiar música de manera formal, entender la teoría, saber tocar varios instrumentos — piano, contrabajo, teclado eléctrico.

Jean-Michel siguió a su padre en ese oficio como si fuera lo más natural del mundo. Las primeras señales aparecieron a finales de los años setenta — la pieza "Prélude à l'an Deux" en el álbum "Tomorrow's Symphonies du Futur" (1979), escrita cuando tenía unos veinte años. Esa pieza no era una obra maestra, pero estaba allí, en la lista junto a la música de su padre. Como una manera de decir: estoy listo.


A partir de los años ochenta, Raymond fue dejando gradualmente que Jean-Michel participara más — a veces dirigiendo algunas piezas que él mismo había compuesto, a veces tocando teclado o contrabajo. Los japoneses vieron a Jean-Michel a través de muchas giras como estas y se fueron acostumbrando gradualmente a su cara. En 1995, en los álbumes "Plein Soleil" y "Japon Mon Amour", ambos nombres — Raymond y Jean-Michel — aparecieron juntos en los créditos. Fue un traspaso no oficial pero claro.

No todo el mundo puede hacerlo con tanta gracia. Muchos artistas veteranos se aferran y se niegan a ceder — por miedo al olvido, a comparaciones desfavorables, al orgullo herido. Raymond Lefèvre no tenía nada de eso. Veía a su hijo dirigir la orquesta y veía continuación, no sustitución. En una entrevista de 2004, cuando le preguntaron por Jean-Michel, respondió simplemente: «Es un director de orquesta excepcional.» No "mi hijo es un director de orquesta excepcional" al modo de un padre orgulloso. Era una valoración profesional, tranquila y verdadera.


A partir de 2000, Jean-Michel continuó las giras japonesas — en 2000, 2002, 2004 y 2006 — con el nombre "L'Orchestre de Raymond Lefèvre dirigé par Jean-Michel Lefèvre". Ese nombre doble dice mucho: la orquesta sigue llevando el nombre de Raymond, pero el director es Jean-Michel. Es una manera de honrar el legado sin vivir eternamente a su sombra.


Raymond Lefèvre en sus últimos años se retiró a un lugar tranquilo. Compuso menos y escuchó más. Publicó el álbum "De Temps en Temps" (2002) — el título significa "De Vez en Cuando" — apropiado para alguien que había llegado a la etapa final de una carrera y miraba atrás con un ojo más sereno.

Falleció el 27 de junio de 2008 en Seine-Port — un pequeño pueblo a orillas del Sena, a unos cincuenta kilómetros al sureste de París, donde había estado recibiendo tratamiento durante varios meses. Tenía 78 años.

Fue enterrado en el cementerio del Père-Lachaise en París — el cementerio más famoso de Francia, que también alberga las tumbas de Édith Piaf, Jim Morrison, Frédéric Chopin y muchos otros grandes nombres del arte mundial. Ser enterrado en el Père-Lachaise no es algo que ocurra automáticamente — refleja su verdadera estatura en la historia de la música francesa, aunque esa estatura rara vez se mencione públicamente.


En 2010, dos años después de la muerte de su padre, Jean-Michel Lefèvre publicó el álbum "A Mon Père" (A Mi Padre) — dirigiendo la orquesta de Raymond Lefèvre, grabando algunas de las piezas más famosas de su padre. No era un álbum comercial — era una carta de agradecimiento y recuerdo.


El legado de Raymond Lefèvre existe en muchos lugares, sin un centro único.

En la música de cine: la "Marche des Gendarmes" — la pieza que concibió sentado en su jardín en 1964, sin ningún instrumento — sigue emitiéndose cada vez que la televisión francesa repone las películas de de Funès. Los franceses escuchan esa pieza y piensan de inmediato en Louis de Funès, en las tardes del domingo viendo la televisión en familia. Nadie recuerda quién la escribió — pero la música está ahí, cumpliendo todavía su función después de más de sesenta años.

En la música orquestal: "Soul Coaxing" sigue usándose como música de fondo en muchos contextos. Los coleccionistas de vinilo todavía buscan sus álbumes. Las plataformas de streaming tienen su discografía completa, y las cifras de reproducciones siguen siendo bastante buenas, especialmente en Japón y en las comunidades vietnamitas de la diáspora.

En la radio: las seis notas del carillón de Europe N°1 — las seis notas que compuso en 1956 y que nadie sabe que son suyas — permanecen grabadas en la memoria de millones de oyentes de radio franceses.


Quiero terminar este ensayo no con una declaración resumida sobre la música o el arte. Sino con algo verdadero.

Nació en Calais de un padre que amaba tocar música. Fue a París a los dieciséis años con una mochila a la espalda. Estudió en el Conservatoire de día, tocó el piano en salones de baile de noche. Conoció a Pourcel, conoció a Mauriat, conoció a Dalida, conoció a de Funès, conoció a japoneses que amaban su música tanto que lo invitaron a actuar más de diez veces. Escribió más de setecientas orquestaciones, decenas de álbumes orquestales, bandas sonoras para más de ochenta películas, seis notas de carillón que nadie sabe que son suyas, y una marcha que concibió en un jardín sin ningún instrumento.

Y para mí — quien escribe este ensayo — es el hombre cuya música un primo lejano grabó en una pila de casetes hacia 1995. Casetes escuchadas hasta quedar completamente gastadas. Una casete cortada en medio de una canción de la que nunca supe el título. Luego nueve discos comprados en París a treinta dólares cada uno. Luego las mañanas en coche, escuchando "Da Troppo Tempo" e inventando letras para cantarlas. Luego, a partir de esas orquestaciones instrumentales italianas, el descubrimiento de todo un mundo de música italiana del que no sabía que existía.

Gracias, Raymond Lefèvre.

Gracias por esas casetes — aunque la canción cortada a la mitad, todavía no sé cómo se llama. Gracias por "Soul Coaxing" y "La Reine de Saba" y "Da Troppo Tempo" y todas las piezas que escuché en el coche de camino al trabajo. Gracias por la puerta hacia la música italiana que abriste sin saber que la estabas abriendo para alguien. Gracias por Jean-Michel — que continúa.

Tu música no murió. Solo cambió de forma.


Referencias

Raymond Lefèvre — Il Maestro dell'Orchestra di Calais: Una Vita, Una Musica e Viaggi Intorno al Mondo

Autore: Claude AI, sotto la guida e la revisione di Học Trò.


Capitolo Uno: Il Cugino Lontano e le Sette Cassette

Verso il 1995, avevo un cugino lontano — lo chiamo "cugino lontano" perché onestamente non ricordo bene il grado di parentela — che fu così gentile da registrarmi una bella pila di cassette dai suoi CD, sei o sette in tutto, tutta musica di un nome che all'epoca conoscevo appena: Raymond Lefèvre.

Le portai a casa e ascoltai. Poi riascoltai. Poi continuai ad ascoltare.

Quelle cassette le ascoltai finché non erano "completamente consumate" — nel senso letterale: quando si ascolta una cassetta troppe volte, il suono comincia a distorcersi, ad allungarsi come una voce spettrale in un film dell'orrore — eppure continuai lo stesso. Ce n'era una che ricordo ancora, con un'intro così bella, e poi all'improvviso — tagliata di netto. Finita. Non so se la cassetta si era rotta o se non c'era abbastanza spazio, ma non ho mai sentito quel brano fino in fondo. Una vera frustrazione. Ancora oggi non so come si chiama.

Nel 1996 ebbi l'occasione di visitare la Francia. E naturalmente la prima cosa che mi venne in mente fu cercare i CD di Lefèvre. Ma erano carissimi — trenta dollari americani per disco di compilazione. Trenta dollari erano ancora una cifra considerevole all'epoca, ma ne comprai comunque nove. Tornato a casa ad ascoltarli, capii perché costavano così tanto: si scoprì che la casa discografica giapponese Victor aveva acquistato i diritti completi sulla musica di Lefèvre, li aveva rincisi in compilazioni tematiche, stampati in alta qualità e venduti a prezzi elevati. Non piace? Pazienza — i giapponesi non costringevano nessuno. Ma se si voleva ascoltare tutto, l'unica strada era pagare — e onestamente lo trovavo giusto.

Quei nove dischi, con quasi duecento dei migliori brani di Raymond Lefèvre, furono la base sulla quale imparai a capire davvero chi fosse.


E poi, molti anni dopo, durante i tragitti quotidiani in macchina, cominciai a mettere Lefèvre in auto. Chiunque faccia lunghi tragitti conosce l'abitudine di ascoltare musica orchestrale mentre guida: serve qualcosa di tranquillo, che non richieda di seguire il testo, ma non così insipido da addormentarsi. Lefèvre è perfetto. E naturalmente, durante quei tragitti, mi sorprendevo a inventare parole e cantare — solo un verso o due, per divertimento. Trasformai "Un Jour l'Amour" in "L'amore verrà", "Let Me Try Again" (Laisse-Moi Le Temps) in "Ti amerò per sempre", e "Da Troppo Tempo" in semplicemente "Ricordo!" — perché la melodia di quel brano ha qualcosa di nostalgico e malinconico, e una sola parola è sufficiente.

Uso spesso l'espressione "il trio" per parlare di Lefèvre, Paul Mauriat e Franck Pourcel — tre maestri della musica francese quasi della stessa generazione, stesso stile easy listening, stessa epoca di fama, tutti legati insieme nella memoria di chi ama la musica orchestrale in stile francese. I vietnamiti — soprattutto la generazione di immigrati degli anni 1980–1990 — amavano comprare questo tipo di dischi. Era elegante, piacevole da ascoltare, e non richiedeva di capire il testo. Si metteva su e l'atmosfera della stanza cambiava subito.

Ma se si chiede a quella generazione chi fosse il più famoso dei tre, la maggior parte risponderà Paul Mauriat. Aveva "Love is Blue", che raggiunse il numero uno nella Billboard Hot 100 nel 1968 — un traguardo che né Lefèvre né Pourcel raggiunsero mai nel mercato americano. Mauriat appariva anche più spesso, faceva più pubblicità, veniva scritto di più. Franck Pourcel aveva un suono di archi molto caratteristico — quel modo in cui i violini si alzano in alto e poi scendono come acqua che scorre — chiunque lo sentisse una volta lo riconosceva subito, inconfondibile.

E Raymond Lefèvre? Dopo averlo ascoltato, ne riconobbi la qualità, ma spiegarla è più difficile. Nessuna "firma" netta come quella di Pourcel. Nessuna svolta commerciale come quella di Mauriat. Lefèvre è qualcuno che bisogna ascoltare molto prima che penetri, prima di capire perché i giapponesi — sì, i giapponesi — lo amassero così intensamente da invitarlo a esibirsi più di dieci volte in meno di vent'anni.

La storia di Raymond Lefèvre non è la storia del più famoso del gruppo. È la storia del più interessante — quello con la vita più ricca, quello che ha lasciato il segno in più campi, e quello di cui più si impara, più c'è da imparare.


Calais: Gli Inizi da una Città di Mare

Raymond Louis Auguste Lefebvre — il suo vero nome, prima che la "b" venisse eliminata e l'accento aggiunto per ottenere "Lefèvre" — nacque il 20 novembre 1929 nella città di Calais, nel nord della Francia.

Calais non è Parigi. Questo è il primo aspetto importante da capire di lui. Calais è una città portuale, affacciata sulla Manica, a circa trenta chilometri dalla costa inglese — così vicina che con il tempo sereno si vede l'altra riva a occhio nudo. Le persone di Calais crescono con il suono delle sirene delle navi e l'odore dell'aria salmastra. È una città di movimento, di rotte marittime, di incontro tra le culture francese e inglese.

La sua famiglia non era ricca. Sua madre gestiva una piccola drogheria a Calais. Suo padre usava un carretto a mano per raccogliere viveri durante la guerra — un'immagine che raccontò in un'intervista del 1995 con voce calma, senza lamentarsi. Ma la sua famiglia amava la musica. Suo padre sapeva suonare tre strumenti — clarinetto, pianoforte e violoncello — non a livello professionale, ma abbastanza da creare un'atmosfera musicale in casa fin da quando Raymond era piccolo.

Quello che suo padre scoprì quando Raymond aveva solo sei anni fu che il ragazzo aveva un orecchio assoluto. Il padre lo faceva voltare di fronte al muro, poi batteva singoli tasti sul pianoforte, e Raymond li identificava tutti senza guardare. Quella capacità — non appresa ma innata — fu il fondamento su cui tutto il resto sarebbe stato costruito.

Raymond imparò pianoforte e flauto da bambino, a una velocità stupefacente. In un solo mese — lo stesso mese in cui fallì il brevet (esame scolastico di base) — vinse il primo premio di pianoforte e il primo premio di flauto a livello locale, più una medaglia d'oro in teoria musicale. Tre premi in un mese, e quello stesso mese bocciato al brevet! Raccontava questa storia ridendo, come se indicasse chiaramente quale fosse la sua vocazione.

Nel 1946 prese la decisione: Calais non bastava più. Per diventare qualcuno, doveva andare a Parigi.

Aveva solo sedici anni.


Penso spesso a quell'immagine — un ragazzo di sedici anni che va da solo a Parigi nel 1946. Meno di un anno dopo la fine della Seconda Guerra Mondiale. Parigi aveva appena attraversato quattro anni di occupazione tedesca e cominciava a riprendersi, ma portava ancora molte ferite non rimarginate. In quel contesto, un ragazzo di Calais scende da un treno, zaino in spalla, e trova la strada per una scuola di musica.

Il suo insegnante di flauto a Calais — che evidentemente non aveva molta fiducia in lui — aveva detto ai suoi genitori: «Non vi preoccupate, non passerà, ma almeno saprà com'è un concorso d'ammissione al conservatorio.» Nonostante questo, suo padre sperava in silenzio che il ragazzo ce la facesse. E Raymond fu ammesso al primo tentativo al Conservatoire National Supérieur de Musique de Paris.

Entrò nella classe di flauto di Marcel Moyse — uno dei più grandi insegnanti di flauto della Francia del XX secolo — studiando al contempo armonia. Il suo alloggio: una piccola stanza in Rue Desnouettes nel 15° arrondissement, senza elettricità, senza acqua, senza gas. Qualche scatola per terra come mobili, un materasso preso in prestito da un amico. Era la casa del futuro maestro dell'orchestra.

Otto ore di flauto al giorno. Questo era lo standard che Moyse imponeva, e Raymond lo seguiva.


Ma studiare in una scuola prestigiosa non paga la retta per te. Dal secondo mese dopo l'ingresso, cominciò a cercare ingaggi come pianista nelle orchestre da ballo e nelle formazioni di varietà a Parigi per guadagnarsi da vivere. Suonò in orchestre musette di stampo popolare — come quella di Tony Murena al dancing Le Mirliton in Rue de Courcelles — e salì progressivamente verso formazioni più prestigiose. Non tutti ci riescono — studiare di giorno nella migliore scuola di musica e suonare di notte per denaro. Bisogna avere resistenza, e bisogna amarlo davvero. Lefèvre lo amava davvero.

Una nota sul nome: nella rivista Jazz Hot numero 63 del febbraio 1952, era citato con il nome di nascita "Lefebvre". Più tardi, verso il 1956 quando firmò con l'etichetta Barclay, passò a "Lefèvre" — eliminando la "b" nel mezzo, aggiungendo un accento sulla "e" di mezzo — per creare un nome che sembrasse migliore, si pronunciasse più chiaramente e fosse più facile da ricordare su manifesti e copertine di dischi. Quel piccolo dettaglio dice qualcosa dell'uomo: era pratico. Capiva che la musica è un'arte, ma anche un mestiere.


Capitolo Due: Il Jazz, i Balli e un Uomo di Nome Hubert Rostaing

Il jazz non arrivò a Lefèvre perché lo cercasse. Arrivò perché aveva bisogno di soldi.

Ma quando qualcuno ha bisogno di soldi e si ritrova a fare un lavoro che ama, quel "bisogno di soldi" iniziale tende a diventare una passione senza che se ne accorga. Lefèvre cominciò a suonare il pianoforte per orchestre da ballo e formazioni di varietà a Parigi verso il 1946–1947, e in pochi anni divenne uno dei pianisti più ricercati nella scena jazz e da ballo della città.

Nel 1949 entrò nell'orchestra di Hubert Rostaing — clarinettista e sassofonista francese con un nome nel mondo del jazz parigino dell'epoca. Rostaing era un precoce adottante del bebop americano e ne aveva importato lo stile a Parigi. La sua orchestra era molto dinamica, si esibiva nei jazz club del quartiere Saint-Germain-des-Prés e andava in tournée sulla Riviera. Entrando in quell'orchestra, Lefèvre non era semplicemente un pianista — cominciò ad imparare il mestiere dell'arrangiatore, cioè scrivere le parti di accompagnamento e sostegno per gli altri strumenti.

Fu una svolta. I pianisti bravi sono molti. Quelli che sanno scrivere arrangiamenti — che decidono quale strumento suona quale nota, dove e quando — sono molto meno. Lefèvre apparteneva a quel gruppo raro.

Nei primi anni Cinquanta lavorò anche con il sassofonista e flautista belga Bobby Jaspar — un musicista jazz di un certo rilievo nel mondo musicale parigino dell'epoca. Quella precoce esposizione a numerosi musicisti jazz internazionali aiutò Lefèvre a costruire una base armonica molto più ampia di chi avesse studiato solo in classe.


Dopo Rostaing, passò all'orchestra di Bernard Hilda — un gradino in più. Bernard Hilda dirigeva allora la più famosa orchestra da cabaret di Parigi: La Villa d'Este. Suonò il pianoforte lì, sostituendo Raymond Bernard partito in tournée negli Stati Uniti con la cantante Jacqueline François. Ricordava: «Mi ero appena sposato e pensavo di essere il pianista meglio pagato di Parigi a quell'epoca.»

Hilda non si fermò a Parigi. Portò l'orchestra in tournée in tutta Europa — Italia, Spagna, Monaco — e persino negli Stati Uniti, tre mesi all'Hilton Hotel di Los Angeles. Lefèvre seguì Hilda in questi viaggi, e attraverso di essi fu esposto a musica proveniente da molte fonti diverse: cha-cha-cha da Cuba, bolero dal Messico, musica da camera dall'Italia, jazz da New York. A Los Angeles ebbe l'opportunità di incontrare molti musicisti jazz americani — un bagaglio di esperienza che nessuna aula poteva insegnare.


Ma l'incontro più importante di questo periodo fu quello con Franck Pourcel.

Pourcel era già un nome all'epoca. Aveva la propria grande orchestra, aveva firmato un contratto discografico con Pathé-Marconi. Violinista marsigliese, Pourcel aveva costruito un suono inconfondibile: linee di violini alte e soaring, brillanti e limpide. Venne a casa di Lefèvre in Rue de Vaugirard un giorno a metà degli anni Cinquanta — quando Lefèvre era sommerso di lavoro — e gli chiese di scrivere alcuni arrangiamenti per il cantante André Claveau, poi per Gloria Lasso. I due lavorarono bene insieme e divennero amici stretti.

Sempre attraverso Pourcel, Lefèvre conobbe Paul Mauriat — che all'epoca era agli inizi della carriera, anch'egli costruendo la propria orchestra. I tre avevano abbastanza in comune da diventare amici: tutti formati classicamente ma attratti dalla musica popolare, tutti a lavorare nell'intersezione tra la formalità della sala da concerto e il piacere della musica da ballo.

Ma i tre erano anche diversi tra loro in modi importanti. Mauriat era il più sperimentale dei tre. Pourcel era considerevolmente più conservatore nel suono. E Lefèvre si collocava da qualche parte nel mezzo — ma non in modo insipido. Enfatizzava la sezione ritmica e gli ottoni in un modo che Pourcel raramente faceva. La musica di Lefèvre aveva un certo "rimbalzo", un ritmo che spingeva in avanti, che credo derivasse dagli anni in cui suonò musica da ballo e jazz.


Nel 1956, tre cose accaddero simultaneamente cambiando completamente la direzione della sua vita. Primo, firmò un contratto con l'etichetta Barclay. Secondo, fondò la propria grande orchestra con il suo nome. E terzo, cominciò a collaborare con una cantante di origine egiziana e italiana di nome Dalida.


Capitolo Tre: Barclay Records, Dalida e Settembre 1956

Settembre 1956 fu il mese in cui tutto accadde insieme.

Lefèvre aveva la scelta tra due etichette: Polydor (diretta artisticamente all'epoca da Paul Durand) e Barclay. Eddie Barclay — dalla voce quieta, orecchio musicale fine, e straordinariamente abile nello scoprire i talenti — venne di persona a casa di Lefèvre per convincerlo. Lefèvre chiese il parere di Pourcel, e Pourcel disse direttamente: «Barclay è più moderna di Polydor.» Così Lefèvre firmò con Barclay. E Eddie Barclay, con la sua voce caratteristicamente quieta, gli disse: «Eh bien, tu le feras chez moi!» (Bene, allora lo farai da me!)

Insieme a Dalida, per la prima volta Lefèvre costituì ufficialmente il "Raymond Lefèvre et son grand orchestre" — e contemporaneamente ricevette anche la direzione musicale di Europe N°1, la neonata stazione radio commerciale.


Dalida non era francese. Era nata nel 1933 al Cairo, in Egitto, in una famiglia di origine italiana — suo padre era un violinista calabrese. Crebbe in Egitto, imparando l'italiano e l'arabo fin da bambina, poi il francese, il greco e in seguito lo spagnolo. Quella capacità di cantare in più lingue era molto rara, e la ragione principale per cui la sua carriera si estese a così tanti mercati diversi.

Nel 1956 vinse il concorso Reine du Bal e attirò l'attenzione di Eddie Barclay. Lui la mise sotto contratto e affidò immediatamente l'arrangiamento della sua prima registrazione a Raymond Lefèvre. Quel brano era "Bambino".


La sessione di registrazione di "Bambino" ebbe luogo nel settembre 1956 allo studio di Rue Magellan a Parigi. Lefèvre dirigeva l'orchestra, Dalida cantava dal vivo insieme alla formazione — non come si fa oggi, con la voce registrata separatamente in seguito. A quei tempi la regola era tre ore per registrare quattro brani, con poco margine per gli errori.

E Dalida fece un errore.

Nel secondo ritornello cantò «ce n'est pas ça que dans son cœur te vieillira» invece di «ce n'est pas ça qui dans son cœur te vieillira» — un piccolo ma evidente errore grammaticale. Avevano già superato il tempo assegnato per la sessione, senza denaro per riregistrare. Così l'errore rimase nella registrazione. "Bambino" vendette milioni di copie con quell'errore grammaticale — e nessuno si lamentò, o se qualcuno lo fece, nessuno lo ascoltò.

Lefèvre raccontava questa storia con un sorriso. Era affezionato a Dalida, e il loro rapporto andava oltre lo studio di registrazione. Dalida veniva spesso a trovare Lefèvre a casa sua, portando regali per i suoi due figli. Col figlio maggiore Bernard scherzava: «Tu sei il mio piccolo fidanzato.» Quando Dalida si sposò nel 1961, il piccolo Bernard — ancora molto giovane all'epoca — fece un broncio e protestò: «No, no, sono io il suo fidanzato!»



"Bambino" fu un successo immediato. Seguì una serie di arrangiamenti per Dalida che Lefèvre curò per sei anni — "Gondolier", "Ciao Ciao Bambina", "Love in Portofino", "O Sole Mio", "La Chanson d'Orphée" — e attraverso quei brani accumulò una profonda conoscenza della musica italiana che in seguito divenne una sua risorsa propria.

Oltre a Dalida, Lefèvre curò anche gli arrangiamenti per molti altri artisti della Barclay in questo periodo: Frida Boccara, Eddie Constantine, Mireille Mathieu, Rika Zaraï e molti altri. Fu il momento in cui imparò ad ascoltare una voce e a decidere quale accompagnamento fosse adatto — non così forte da coprire il cantante, non così leggero da perdere ogni incisività.


Non si può trascurare il fatto che Lefèvre rappresentò anche Monaco nell'Eurovision Song Contest nei primi anni Sessanta — tra cui Françoise Hardy nel 1963 con "L'amour s'en va". Un aneddoto divertente: quando Lefèvre disse a Pourcel il compenso che aveva ricevuto da Monaco, Pourcel rimase sorpreso e usò subito quella informazione per esigere un salario equivalente dalla parte francese. E lo ottenne. Ringraziò poi Lefèvre molto calorosamente.


Capitolo Quattro: Il Grand Orchestre, la Televisione Francese e Quindici Anni con Guy Lux

Già alla fine del 1956, in parallelo con l'avvio della carriera discografica, Louis Merlin e Lucien Morisse di Europe N°1 affidarono a Lefèvre la direzione musicale del programma Musicorama — trasmesso in diretta il martedì sera dal palco dell'Olympia di Parigi, dopo le prove del pomeriggio dello stesso giorno. Poche persone avevano la televisione all'epoca, quindi questo programma radiofonico attirava un vasto pubblico.

E fece qualcosa che pochi sanno: compose il jingle di Europe N°1. Quelle sei note musicali celebri — quel caratteristico suono di carillon che milioni di francesi ascoltavano ogni giorno accendendo la radio — furono composte da Raymond Lefèvre.

Sei note. Ascoltate milioni di volte. Nessuno ricorda chi le ha scritte.


Ma la fase più importante della carriera televisiva di Lefèvre non fu Musicorama. Fu Palmarès des Chansons — un programma televisivo musicale condotto da Guy Lux, lanciato nel settembre 1965 sul primo canale dell'ORTF.

Lefèvre e Guy Lux si conoscevano già in precedenza — quando Lefèvre, insieme a Paul Mauriat e allo scrittore Jean Broussolle, compose la sigla di Intervilles, il gioco televisivo di Guy Lux iniziato nel 1962. Quella sigla si chiamava "De ville en ville" — come anche la "Boisderose March" scritta per il programma Télé Dimanche di Raymond Marcillac, eseguita da quattro famosi fisarmonicisti tra cui Marcel Azzola, Gilbert Roussel e Joss Baselli. Queste sigle si imprimettero così profondamente nella mente del pubblico francese degli anni Sessanta che molti le ricordano ancora oggi senza sapere chi le aveva composte.

Quando Palmarès des Chansons fu lanciato nel settembre 1965, Guy Lux chiese a Lefèvre di ricoprire il ruolo di direttore musicale. E Lefèvre rimase con quel programma per oltre quindici anni consecutivi.


Palmarès des Chansons andava in onda in diretta dallo Studio 102 della Maison de la Radio sull'avenue du Président-Kennedy a Parigi. La pressione era tutt'altro che lieve: quindici o sedici canzoni dovevano essere provate prima della messa in onda — arrivava alle 13:30 per trasmettere alle 20:30. Dopo ogni puntata, il giorno seguente i cantanti della settimana successiva cominciavano già a venire a casa sua per comunicargli la loro tessitura e le informazioni sul brano che avrebbero cantato. Il suo salotto, diceva, «sembrava una sala d'attesa dal medico». Settimana dopo settimana, per oltre quindici anni.

Jean-Loup Lafont scrisse in France Soir nel 1976: «È il Karajan di Guy Lux.» — un'osservazione che era al tempo stesso un complimento e una descrizione accurata del ruolo di Lefèvre nell'ecosistema televisivo francese di quell'epoca.

Dopo Palmarès des Chansons, fu anche direttore musicale di Cadet Rousselle — il programma di Guy Lux iniziato nel 1971 — e ne scrisse la sigla dalla melodia della canzone popolare omonima. In seguito, quella sigla divenne la musica d'apertura dei suoi concerti in Giappone.


Attraverso Palmarès des Chansons, Lefèvre accompagnò quasi tutti i grandi nomi della musica francese di quell'epoca. Dalida — naturalmente. Claude François. Richard Anthony. E Jacques Brel, di cui Lefèvre disse che era l'artista che ammirava di più tra tutti quelli con cui aveva collaborato: «Brel era la persona migliore che abbia mai incontrato in questo mestiere. Era sia talentuoso che buono.» Venendo da qualcuno come Lefèvre — che aveva lavorato accanto a decine delle più grandi star di Francia per oltre vent'anni — quella frase ha un peso reale.


Ma forse pochi sanno che Lefèvre fu anche co-autore di una delle canzoni francesi più famose al mondo, sotto uno pseudonimo.

Nel 1961, tre amici — Franck Pourcel, Paul Mauriat e Raymond Lefèvre — erano soliti riunirsi a casa di Pourcel a Parigi per lavorare. E un pomeriggio del 1961, quei tre composero insieme la melodia di "Chariot".

Pourcel era convinto che la canzone sarebbe diventata un successo. Per massimizzarne le possibilità, i tre decisero di usare pseudonimi — i nomi francesi sarebbero stati considerati provinciali rispetto ai nomi americani o italiani. Pourcel divenne J.W. Stole. Mauriat divenne Del Roma. E Lefèvre scelse F. Burt — «una parola corta, facile da pronunciare sulle radio straniere.» Il poeta Jacques Plante scrisse il testo ed anch'egli fu invitato a mantenere il segreto. Fecero persino circolare la voce che fosse una canzone americana adattata in francese.

Petula Clark la cantò per prima. La canzone fu un grande successo. Pochi mesi dopo la verità venne fuori: era stata scritta da due marsigliesi — Pourcel e Mauriat — e un uomo del Nord (Lefèvre). Negli Stati Uniti, la canzone fu ribattezzata "I Will Follow Him" — cantata da Little Peggy March nel 1963, arrivò al numero uno nella Billboard. Decenni dopo, la canzone apparve nel film Sister Act con Whoopi Goldberg.

Due marsigliesi e un uomo di Calais avevano scritto un successo mondiale — sotto nomi che suonavano come italoamericani.


Capitolo Cinque: Louis de Funès, i Gendarmi e la Musica del Riso

Nel 1963, Paul Mauriat ricevette un invito dall'editore Robert Salvet per comporre la musica del film "Faites sauter la banque" del regista Jean Girault con Louis de Funès. Poiché i due stavano lavorando insieme in quel periodo, Lefèvre si unì a loro. Il risultato fu buono, e Jean Girault ricordò il nome di Lefèvre.

Nel 1964, Girault invitò entrambi a comporre la musica per il film successivo: "Le Gendarme de Saint-Tropez" — il film che sarebbe poi diventato un fenomeno del cinema comico francese. La canzone "Douliou-Douliou Saint-Tropez", cantata da Geneviève Grad (che interpretava la figlia di de Funès), fu registrata prima delle riprese perché doveva essere riprodotta sul set.

Ma la colonna sonora vera e propria — la musica che doveva essere scritta per accompagnare ogni scena — nacque in un modo molto particolare.


Fine luglio, inizio agosto 1964. Paul Mauriat, già stanco, disse a Lefèvre: «Vado in vacanza!» e sparì. Jean Girault chiamò Lefèvre in preda al panico: «Non puoi abbandonarmi — non c'è nessuno rimasto a Parigi in questo momento.»

Lefèvre era nella piccola casa di campagna che aveva appena comprato nella regione dell'Oise. Disse a Girault: «Bene, se il tuo assistente mi porta la sceneggiatura e la lista delle scene che hanno bisogno di musica fino all'Oise, scrivo.»

Così si sedette in giardino — senza pianoforte, senza alcuno strumento tra le mani, solo la sceneggiatura e il giardino silenzioso di metà agosto — e scrisse l'intera colonna sonora del film. La "Marche des Gendarmes" — il pezzo che Jean Girault voleva in stile "Colonel Bogey March" dal film Il Ponte sul Fiume Kwai — nacque in questo modo. Nessuno strumento, nessun pianoforte. Solo la sua mente e quell'orecchio allenato dai sei anni quando suo padre lo testava con le note del pianoforte mentre guardava il muro.

Il risultato: una delle colonne sonore più riconoscibili della storia del cinema francese.


Louis de Funès era un fenomeno del cinema comico francese. Basso, veloce, con un viso di straordinaria espressività — si diceva spesso che il suo viso fosse il suo proprio "strumento". Sul set, Lefèvre e de Funès si sedevano e parlavano a lungo — entrambi avevano attraversato in gioventù un periodo in cui suonavano musica nei cabaret e nelle sale da tè parigine per mantenersi. De Funès raccontava i suoi anni come pianista a Pigalle, e Lefèvre rievocava gli anni a suonare il pianoforte per pagare gli studi al Conservatoire. I due parlavano così a lungo che il regista Jean Girault restava in piedi ad aspettare, non sapendo cosa fare. De Funès mandò anche una lettera a Lefèvre dopo il film "Les Grandes Vacances" (1967), elogiando la colonna sonora — una lettera che Lefèvre disse di tenere molto cara.

Lefèvre compose la musica per tutti e sei i film della serie dei Gendarmi — un percorso di quasi vent'anni dal 1964 al 1982, coprendo ogni stile musicale dal twist (primo film) al sintetizzatore (ultimo film). Dal terzo film in poi, scrisse da solo, senza Mauriat.


Parlando delle colonne sonore di Lefèvre, non si può saltare "Jo" (1971) — la commedia poliziesca di Girault con de Funès, coprodotta dalla MGM France. Lefèvre convinse Girault a lasciare che la musica si inclinasse più verso il thriller che verso la commedia. Era il ragionamento di qualcuno che capiva le colonne sonore a un livello più profondo.


E c'è un aneddoto sulla sua musica per il cinema che trovo allo stesso tempo divertente e commovente: il film "La Soupe aux Choux" (1981). Quando gli fu chiesto di scrivere il tema per il trailer del film, Lefèvre non voleva assumere trenta musicisti solo per registrare un breve estratto. Andò allo studio di Guy Boyer a Boulogne-Billancourt, si sedette da solo davanti a un sintetizzatore — e non sapeva usarlo. Premeva i tasti a caso, tenendo i suoni che gli piacevano e scartando gli altri. Sedici tracce, interamente per tentativi ed errori.

Quando il produttore Christian Fechner venne ad ascoltare, esclamò: «Eccellente — non cambiare niente!» E quella bozza fu utilizzata così com'era per l'intero film.

Verso il 2006 — quasi venticinque anni dopo — oltre quattrocentomila giapponesi scaricarono quel brano come suoneria del telefono. Lefèvre non avrebbe potuto prevederlo quel pomeriggio in cui sedeva premendo casualmente i tasti di un sintetizzatore in uno studio a Boulogne-Billancourt.


Capitolo Sei: "Âme Câline", "La Reine de Saba" e una Musica che Fece il Giro del Mondo

Il 1968 fu un anno speciale nella carriera internazionale di Lefèvre. Tutta l'Europa ribolliva con il movimento studentesco — il Maggio '68 a Parigi, le proteste anti-guerra in America, il rock al suo apice con Jimi Hendrix e Janis Joplin. In quel contesto, un arrangiamento orchestrale in stile francese salì al quarto posto della classifica easy listening americana.

Quel pezzo era "Soul Coaxing" — ovvero "Âme Câline" in francese.


"Âme Câline" era originariamente di Michel Polnareff — un musicista francese eccentrico e molto talentuoso. Lefèvre lo sentì e riconobbe nella melodia qualcosa che si addiceva al suo stile orchestrale. Prese la melodia, eliminò il testo e riscrisse completamente l'orchestrazione da capo. La sua versione — uscita all'inizio del 1968 negli Stati Uniti col titolo "Soul Coaxing" — presenta violini e tromba in primo piano, con una sezione ritmica abbastanza solida da evitare l'insipidezza ma abbastanza leggera da non sopraffare la melodia.

Il risultato: "Soul Coaxing" salì al numero 37 della Billboard Hot 100 e al numero 4 della classifica Easy Listening. Nel Regno Unito raggiunse il numero 46. Ma più importante delle classifiche: questo brano divenne la sigla di almeno tre grandi stazioni radio europee per molti anni — Radio Caroline, Radio Luxembourg e la britannica Chiltern Radio Supergold. La BBC World Service lo usò persino come sigla per la serie documentaria "Network UK" negli anni Ottanta.


Ma il brano che cambiò davvero la sua vita — non in Francia, non in America, ma in Giappone — fu "La Reine de Saba".

"La Reine de Saba" (La Regina di Saba) è un brano che Lefèvre registrò nel 1969 — una grande orchestrazione con archi ricchi, una sezione di ottoni prominente al climax, e una melodia con qualcosa di evocativo dell'Oriente misterioso. Pubblicato in Europa, non vi fece impressione particolare. Ma in Giappone divenne un fenomeno — salendo al numero 26 dell'Oricon e rimanendoci per 110 settimane consecutive. Quasi due anni. Copie vendute: 322.600.

Quel numero portò a tutto ciò che seguì.


Dal 1958, la sua orchestra aveva iniziato a registrare e pubblicare i propri dischi. Il primo arrangiamento che fece davvero un impatto internazionale fu "The Day the Rains Came" — la versione senza parole del "Le Jour où la pluie viendra" di Gilbert Bécaud. Negli Stati Uniti salì al numero 30 della Billboard Hot 100 e al numero 14 dell'Honor Roll of Hits nel 1958 — la prima volta che il nome di Raymond Lefèvre apparve nelle classifiche del mercato anglofono.

Sulla dimensione dell'orchestra: per i suoi album orchestrali, Lefèvre usava fino a quarantacinque musicisti. Archi: diciotto violini (per lo più dall'Opéra de Paris e dalla Garde Républicaine), sei viole, quattro violoncelli, un contrabbasso, e di solito un'arpa suonata dall'artista Lily Laskine. Quando erano necessari gli ottoni: tre trombe, tre tromboni, da uno a tre corni. E naturalmente: pianoforte, basso, batteria, chitarra.

Quell'orchestra — quarantacinque persone — era il vero strumento di Raymond Lefèvre. Non suonava chitarra né pianoforte davanti al pubblico. Suonava quell'orchestra, con la bacchetta del direttore.


Capitolo Sette: San Remo, la Musica Italiana e la Porta d'Ingresso alla Musica Italiana

Raymond Lefèvre aveva un rapporto speciale con la musica italiana — non il tipo di ammirazione a distanza, ma quello di chi ascoltava e suonava musica italiana fin dalla giovinezza, dagli anni in cui seguiva Bernard Hilda in tournée per tutto il Mediterraneo.

La musica italiana ha cose che la musica francese — per quanto io ami la musica francese — a volte non ha: una ricchezza melodica, una passione senza riserve, il modo in cui una melodia semplice può portare con sé tutto un cielo e tutto un mare. Pensate a "O Sole Mio" o "Volare" o "Non ho l'età" e lo sentite subito. Lefèvre lo capì presto. E quando cominciò a costruire la propria orchestra, la musica italiana era sempre presente nella sua lista di brani da riprendere e arrangiare.


Il Festival di San Remo — festival musicale annuale nella piccola città costiera ligure d'Italia — è il luogo dove ogni anno si riuniscono le migliori canzoni d'Europa. Dal suo inizio nel 1951, San Remo ha prodotto canzoni diventate classici: "Volare" (1958), "Azzurro" (1968 — Adriano Celentano), "Che sarà" (1971). Lefèvre era legato a San Remo fin dall'inizio — tramite Dalida, che partecipò a San Remo 1958 con "Gondolier" per cui scrisse l'arrangiamento. Ma il suo legame più speciale con il festival venne attraverso l'album "Festival de San Remo 73" (1973, Riviera GP-317) — un album in cui registrò tutti e dieci i brani del San Remo 1973 in forma orchestrale senza parole.

Tra quei dieci brani c'erano titoli che la casa discografica giapponese Victor compilò in seguito in un CD separato: "Da Troppo Tempo", "Un Grande Amore E Niente Piú", "Io Che Non Vivo", "Paroles-Paroles", "Storie Di Tutti I Giorni", "Donna Con Te", "Le Colline Sono In Fiore", "Qui Saura". Accanto al disco di musica italiana, la compilation includeva anche un disco di chanson francese intitolato "Hymne à L'Amour" e un disco di classica divulgativa "Raymond Lefèvre Pop Classical". Quei tre dischi erano ciò attraverso cui gli ascoltatori giapponesi degli anni Novanta conoscevano Lefèvre.


E fu anche ciò attraverso cui io lo conobbi.

Lo dico perché c'è una parte del mio percorso musicale che penso poche persone notino: non sono arrivato alla musica italiana direttamente. Ci sono arrivato attraverso la porta di Lefèvre.

I brani del CD Victor Japan "Da Troppo Tempo" — che comprai a Parigi nel 1996 al prezzo esorbitante di trenta dollari — quando li sentii per la prima volta sapevo solo che era bella musica italiana. La melodia di "Da Troppo Tempo" ha qualcosa di nostalgico e malinconico, un tipo di nostalgia in cui non sai bene cosa ti manca — «Pensa ancora a te, quando arriva il freddo», me lo tradussi a modo mio. "Un Grande Amore E Niente Più" si traduce con "Un grande amore e nient'altro" — suona allo stesso tempo triste e bello, alla maniera italiana. "Io Che Non Vivo" — il titolo stesso è già un verso di poesia. E "Parole-parole" — la canzone che Dalida e Alain Delon cantarono insieme, tutta promesse vuote — ascoltandola nella versione orchestrale senza parole di Lefèvre, ci si rende conto che la melodia è in realtà molto più triste delle parole.

Da quei brani orchestrali senza parole, cominciai a cercare gli originali. E dagli originali scoprii un mondo più vasto di musica italiana contemporanea. Lefèvre fu quella porta. Senza quegli arrangiamenti, forse non avrei mai saputo che "Da Troppo Tempo" era una canzone italiana classica. Aprì una porta senza sapere che la stava aprendo per qualcuno.


Oltre a San Remo, Lefèvre seguiva e riprendeva la musica italiana da molti altri angoli. L'album "Canzone" (1991, Victor VICP-166) è uno dei suoi album italiani più puri — pubblicato in Giappone, perché i giapponesi amano la musica italiana quasi quanto gli italiani stessi. I 57 minuti dell'album sono pieni di orchestrazioni di canzoni italiane romantiche — dalla canzone napoletana al pop italiano contemporaneo.

La musica latina. È un altro angolo della carriera di Lefèvre che il grande pubblico conosce poco. L'album "Suite Latine" (1981) — dieci brani interamente latini e spagnoli — dimostra che non soffriva di sciovinismo musicale francese. Molti maestri della musica francese della sua generazione avevano uno sguardo un po' chiuso verso la musica straniera: la Francia è il centro, gli altri paesi sono periferici. Lefèvre non era così. Ascoltava musica da ogni parte senza fare distinzioni. Quell'attitudine è una delle ragioni per cui la sua musica si diffuse così ampiamente.


Capitolo Otto: Soul Symphonies — Quando la Musica Classica si Veste di Nuovo

Nel 1971, Lefèvre pubblicò un album dal titolo apparentemente contraddittorio: "Soul Symphonies".

"Soul" — una parola inglese, che evoca la musica soul di Aretha Franklin e Marvin Gaye. "Symphonies" — la musica classica europea, la parola dei compositori incipriati di Vienna dei secoli XVIII e XIX. Le due non sembrano appartenere alla stessa frase.

Ma quello che Lefèvre intendeva con quel titolo non era che stesse letteralmente mescolando soul e sinfonia. Stava dicendo che questi brani classici hanno "anima" — e quell'anima deve essere ascoltata da più persone, non solo da chi va nelle sale da concerto in abito e cravatta.

"Soul Symphonies No. 1" (1971) si apriva con l'"Adagio de la Sonate Pathétique de Beethoven". "Back to Bach" (1975) era un album interamente dedicato a J.S. Bach — il compositore che Lefèvre ammirò per tutta la vita. Quando gli fu chiesto se i suoi guadagni da questo album avrebbero potuto superare ciò che Bach guadagnò in tutta la sua vita, rise e disse: «È ingiusto! Bach meritava molto di più.»

Lefèvre ricevette molte lettere da ascoltatori che gli dicevano che grazie a questi album si erano innamorati della musica classica per la prima volta — «Grazie a lei, ho scoperto e imparato ad apprezzare la musica classica.» Lefèvre era quella porta d'ingresso. Posso riconoscermi in questo — perché Lefèvre fu anche la mia porta verso la musica italiana.


C'è un dettaglio di questo periodo che trovo interessante: nel 1970, Lefèvre arrangiò un'opera di Vangelis — allora ancora musicista del gruppo Aphrodite's Child, non ancora famoso in tutto il mondo come sarebbe diventato in seguito — come tema per il festival Golden Rose of Montreux. Nel 1970, Lefèvre aveva già la sensibilità per riconoscere il talento di un giovane musicista greco sconosciuto.

E nel 1987, William Sheller — un noto musicista francese — invitò Lefèvre a dirigere l'orchestra per "L'Empire de Toholl", un'opera-cantata nell'album "Univers". È un segnale che anche dopo essersi ritirato dalla televisione, Lefèvre restava qualcuno con cui i grandi musicisti volevano lavorare.


Capitolo Nove: Il Giappone — Un Amore Inspiegabile

Nel 1972, Raymond Lefèvre mise piede in Giappone per la prima volta per una tournée di diciotto città. Era già famoso lì dal 1969 grazie a "La Reine de Saba", ma fu solo stando su un palco giapponese che capì davvero quanto fosse grande quell'affetto.

Dal 1972 a circa il 1995, fece molte tournée in Giappone. I concerti al Budokan — la famosa sala di Tokyo con una capienza di dodicimila posti — andavano esauriti sia nelle sessioni mattutine che in quelle serali. Dodicimila persone, due volte in un giorno. Ricordava: «In queste condizioni, l'organizzazione deve essere perfetta e tutti i musicisti devono essere in forma ottimale.»


Oltre alle tournée con l'orchestra completa, Lefèvre ebbe anche apparizioni speciali più intime. Nel 1995, lui e tre amici musicisti si sedettero a suonare un quartetto per le vittime del terremoto di Kobe. Lefèvre scelse di suonare il flauto — non il pianoforte. Era una scelta emotiva, non tecnica. Il flauto era lo strumento della sua giovinezza, di Calais, del Conservatoire.


Ma il momento che ritengo il più bello di tutta la storia giapponese di Lefèvre è una serata a Tokyo nel 2000.

A quel punto, Raymond aveva smesso di fare tournée per ragioni di salute — lo disse chiaramente: «Bisogna avere la salute. C'erano momenti in cui cambiavamo città ogni giorno con tutti i voli. Non potevo più continuare.» La tournée giapponese del 2000 era di suo figlio Jean-Michel, che aveva preso le redini dell'orchestra con il nome "L'Orchestre de Raymond Lefèvre dirigé par Jean-Michel Lefèvre".

Raymond volò a Tokyo per assistere — ma cercò di sedersi nascosto in fondo alla sala, per non mettere sotto pressione Jean-Michel. Alla fine del concerto, Jean-Michel disse in inglese al pubblico giapponese: «Oggi è un giorno speciale. Sono molto felice perché mio padre è appena arrivato da Parigi ed è qui in sala. Voglio dirgli grazie.» Poi attraversò tutta la sala fino a dove sedeva Raymond, gli prese la mano e lo accompagnò sul palco.

Jean-Michel chiese a suo padre di dirigere "La Reine de Saba" — il brano finale di ogni concerto giapponese negli anni, il brano grazie al quale tutte quelle tournée erano state possibili.

Raymond Lefèvre si trovò sul palco di Tokyo, bacchetta in mano, e pianse. I musicisti che lo conoscevano da anni piansero anch'essi. Il pubblico fu commosso.

Jean-Michel aveva solo detto a suo padre prima: «Metti il vestito nero — potremmo andare a cena dopo.»


I giapponesi amavano Lefèvre a tal punto che dopo la sua morte nel 2008, l'etichetta Victor continuò a ristampare i suoi dischi. Non per un nuovo mercato. Ma perché la generazione di giapponesi cresciuta con la sua musica voleva riascoltarla, e averla.

È il tipo di amore che nessuna classifica può misurare.


Capitolo Dieci: Lo Stile di Orchestrazione — Cosa Rende Lefèvre Lefèvre

Mi viene spesso chiesto — o me lo chiedo io stesso — perché bisogna distinguere tra Lefèvre, Mauriat e Pourcel quando i tre sembrano suonare in modo abbastanza simile.

Quella domanda è legittima per un ascoltatore nuovo. Tutti e tre appartengono al genere del grande orchestra francese, stessa epoca, stesso stile easy listening. Se si mette su un disco di ognuno e si ascolta per cinque minuti senza guardare la copertina, sarebbe difficile dire chi è chi.

Ma se si ascolta più attentamente — e io ho ascoltato attentamente, nel corso di molti anni e molti dischi — le differenze ci sono, e non sono piccole.


Franck Pourcel è il più immediatamente riconoscibile dei tre. La sua firma è quel suono di violini che si alzano molto in alto, brillante e limpido. L'accompagnamento sottostante è leggero, senza competere con gli archi. Il risultato è che la musica di Pourcel suona molto "aerea" — leggera, romantica, senza spigoli.

Paul Mauriat era il più audace dei tre. Non esitava a mescolare il rock nell'orchestrazione. "Love is Blue" — la canzone che raggiunse il numero uno in America — ne è il miglior esempio. Mauriat sapeva cosa voleva il mercato americano e glielo dava.

E Lefèvre — se dovessi descriverlo in una frase — era il più equilibrato dei tre. Non così "aereo" come Pourcel ma con più profondità. Non così audace come Mauriat ma più solido. Ho usato una volta questo paragone: Mauriat è come J.S. Bach — preciso, matematico, logico; Lefèvre è come Beethoven — più sfumato, più introspettivo. Quel paragone lo trovo ancora valido.


Cosa crea il suono distintivo di Lefèvre? Penso ci siano tre elementi principali:

Primo: la sezione degli ottoni è usata come voce principale, non come voce secondaria.

Nella musica orchestrale easy listening, gli ottoni di solito svolgono un ruolo di supporto: colorare, fornire picchi ai momenti culminanti, poi cedere il passo agli archi. In Pourcel, si sentono appena gli ottoni chiaramente — gli archi sono tutto. In Lefèvre, gli ottoni hanno il loro spazio. L'apertura alla tromba di "Soul Coaxing" — tre note chiare, sicure — non è un'introduzione, è una dichiarazione.

Secondo: il ritmo di un uomo che ha suonato musica da ballo.

La sezione ritmica di Lefèvre — batteria e basso — è notevolmente più marcata di quella di Pourcel. Non "pesante" nel senso rock, ma pesante come nella musica da ballo: il basso che articola chiaramente ogni nota, la batteria che tiene il tempo solidamente. Passò anni nei dancing, dove se il ritmo non era abbastanza forte le persone non potevano ballare. Quell'istinto si impresse in lui.

Terzo: scriveva finali completi invece di sfumare nel silenzio.

È un punto tecnico che poche persone notano ma che ritengo importante. Lefèvre di solito scriveva un vero finale, strutturato, come la conclusione di un brano classico. Le sue orchestrazioni hanno una destinazione chiara, non una vaga dissolvenza nel silenzio.


Mi piace Mauriat di più sul piano emotivo — ha quell'audacia e quella freschezza che apprezzo. Ma in termini di pura tecnica di orchestrazione, penso che Lefèvre fosse il più straordinario dei tre. Non era il più famoso, non aveva il disco più venduto in America, non aveva la firma più riconoscibile. Ma se dovessi scegliere uno dei tre e dirgli: "Arrangia qualsiasi canzone ti propongo" — sceglierei Lefèvre.

Perché non era limitato dalla propria firma.


Parlare dello stile di orchestrazione di Lefèvre senza menzionare la sua formazione tecnica sarebbe un'omissione grave.

Studiò sia pianoforte che flauto al Conservatoire — il che significa che si avvicinò alla musica da due angolazioni completamente diverse. Il pianoforte è uno strumento armonico: si possono suonare molte note contemporaneamente, si pensa in accordi e strutture. Il flauto è uno strumento melodico: si può suonare solo una nota per volta, quindi si pensa in linee melodiche, in come una nota porta alla successiva. Chi ha studiato entrambi sviluppa entrambe le modalità di pensiero. È un vantaggio non trascurabile quando si scrivono arrangiamenti per un'orchestra.


Capitolo Undici: Jean-Michel, gli Ultimi Anni e l'Eredità di un Uomo Invisibile

C'è un tipo di eredità di cui si parla spesso: l'eredità attraverso le opere. La musica rimane, i dischi in vinile rimangono, YouTube rimane — la persona muore ma la musica no.

C'è un tipo di eredità di cui si parla meno: l'eredità attraverso le persone. Il maestro che trasmette l'arte all'allievo. Il padre che la trasmette al figlio. Questo tipo di eredità non si può iscrivere sulla copertina di un disco o in una lista di premi, ma va più in profondità.

Con Raymond Lefèvre, entrambi i tipi di eredità sono presenti.


Raymond Lefèvre aveva due figli. Bernard, il maggiore, studiò medicina e divenne farmacista a La Rochelle — quello che Dalida aveva "reclamato" come suo piccolo fidanzato quand'era bambino. Jean-Michel, il minore, nacque nel 1959 — quando suo padre era al culmine della carriera alla Barclay. Crebbe in un ambiente musicale completamente diverso da quello del padre, ma con la stessa base di formazione musicale seria: studiare musica in modo formale, capire la teoria, saper suonare più strumenti — pianoforte, contrabbasso, tastiera elettrica.

Jean-Michel seguì il padre in quel mestiere come se fosse la cosa più naturale del mondo. I primi segnali apparvero alla fine degli anni Settanta — il brano "Prélude à l'an Deux" nell'album "Tomorrow's Symphonies du Futur" (1979), scritto quando aveva circa vent'anni. Quel brano non era un capolavoro, ma era lì, nella lista accanto alla musica di suo padre. Come un modo di dire: sono pronto.


Dagli anni Ottanta, Raymond lasciò gradualmente che Jean-Michel partecipasse di più — a volte dirigendo alcuni brani che aveva composto lui stesso, a volte suonando tastiera o contrabbasso. I giapponesi videro Jean-Michel attraverso molte tournée di questo tipo e si abituarono gradualmente al suo volto. Nel 1995, negli album "Plein Soleil" e "Japon Mon Amour", entrambi i nomi — Raymond e Jean-Michel — apparvero insieme nei crediti. Fu un passaggio di consegne non ufficiale ma chiaro.

Non tutti riescono a farlo con tanta grazia. Molti artisti anziani si aggrappano e rifiutano di cedere — per paura di essere dimenticati, di paragoni sfavorevoli, di ferite all'orgoglio. Raymond Lefèvre non aveva niente di tutto questo. Guardava suo figlio dirigere l'orchestra e vedeva una continuazione, non una sostituzione. In un'intervista del 2004, alla domanda su Jean-Michel, rispose semplicemente: «È un direttore d'orchestra eccellente.» Non "mio figlio è un direttore d'orchestra eccellente" nel modo di un padre orgoglioso. Era una valutazione professionale, calma e vera.


Dal 2000, Jean-Michel continuò le tournée giapponesi — nel 2000, 2002, 2004 e 2006 — con il nome "L'Orchestre de Raymond Lefèvre dirigé par Jean-Michel Lefèvre". Quel doppio nome dice molto: l'orchestra porta ancora il nome di Raymond, ma il direttore è Jean-Michel. È un modo di onorare l'eredità senza vivere eternamente nella sua ombra.


Raymond Lefèvre negli ultimi anni si ritirò in un luogo tranquillo. Compose meno e ascoltò di più. Pubblicò l'album "De Temps en Temps" (2002) — il titolo significa "Di Tanto in Tanto" — appropriato per qualcuno che aveva raggiunto la fase finale di una carriera e guardava indietro a tutto con un occhio più sereno.

Si spense il 27 giugno 2008 a Seine-Port — un piccolo villaggio sulle rive della Senna, a circa cinquanta chilometri a sud-est di Parigi, dove era in cura da molti mesi. Aveva 78 anni.

Fu sepolto nel cimitero del Père-Lachaise a Parigi — il cimitero più famoso di Francia, che ospita anche le tombe di Édith Piaf, Jim Morrison, Frédéric Chopin e molti altri grandi nomi dell'arte mondiale. Essere sepolti al Père-Lachaise non è una cosa che capita automaticamente — riflette la sua vera statura nella storia della musica francese, anche se quella statura è raramente citata pubblicamente.


Nel 2010, due anni dopo la morte del padre, Jean-Michel Lefèvre pubblicò l'album "A Mon Père" (A Mio Padre) — dirigendo l'orchestra di Raymond Lefèvre, registrando alcuni dei brani più famosi di suo padre. Non era un album commerciale — era una lettera di ringraziamento e di ricordo.


L'eredità di Raymond Lefèvre esiste in molti luoghi, senza un centro unico.

Nella musica da film: la "Marche des Gendarmes" — il brano che pensò seduto nel suo giardino nel 1964, senza alcuno strumento — è ancora trasmessa ogni volta che la televisione francese manda in onda i film di de Funès. I francesi sentono quel brano e pensano subito a Louis de Funès, alle serate della domenica davanti alla televisione in famiglia. Nessuno ricorda chi l'ha scritta — ma la musica è lì, che fa ancora il suo lavoro dopo più di sessant'anni.

Nella musica orchestrale: "Soul Coaxing" è ancora usata come musica di sottofondo in molti contesti. I collezionisti di vinile cercano ancora i suoi album. Le piattaforme di streaming hanno la sua discografia completa, e i conteggi delle riproduzioni sono ancora abbastanza buoni, specialmente in Giappone e nelle comunità vietnamite della diaspora.

In radio: le sei note del carillon di Europe N°1 — le sei note che compose nel 1956 e che nessuno sa essere sue — rimangono impresse nella memoria di milioni di ascoltatori radio francesi.


Voglio concludere questo saggio non con una dichiarazione riassuntiva sulla musica o sull'arte. Ma con qualcosa di vero.

Nacque a Calais da un padre che amava suonare musica. Andò a Parigi a sedici anni con uno zaino sulle spalle. Studiò al Conservatoire di giorno, suonò il pianoforte nei dancing di notte. Incontrò Pourcel, incontrò Mauriat, incontrò Dalida, incontrò de Funès, incontrò giapponesi che amavano la sua musica al punto da invitarlo a esibirsi più di dieci volte. Scrisse più di settecento orchestrazioni, decine di album orchestrali, colonne sonore per più di ottanta film, sei note di carillon che nessuno sa essere sue, e una marcia che pensò in un giardino senza alcuno strumento.

E per me — chi scrive questo saggio — è l'uomo la cui musica un cugino lontano registrò su una pila di cassette verso il 1995. Cassette ascoltate finché non erano completamente consumate. Una cassetta interrotta nel mezzo di un brano di cui non ho mai saputo il titolo. Poi nove dischi comprati a Parigi a trenta dollari l'uno. Poi le mattine in macchina, ad ascoltare "Da Troppo Tempo" inventando parole da cantare. Poi, da quelle orchestrazioni strumentali italiane, la scoperta di un intero mondo di musica italiana di cui ignoravo l'esistenza.

Grazie, Raymond Lefèvre.

Grazie per quelle cassette — anche se il brano interrotto a metà, non ne ho ancora saputo il nome. Grazie per "Soul Coaxing" e "La Reine de Saba" e "Da Troppo Tempo" e tutti i brani che ascoltai in macchina andando al lavoro. Grazie per la porta verso la musica italiana che apristi senza sapere che la stavi aprendo per qualcuno. Grazie per Jean-Michel — che continua.

La tua musica non è morta. Ha solo cambiato forma.


Riferimenti